RAWA声明(2002年9月11日に寄せて)について


RAWAの声明を訳して

 RAWAからの声明は読めば読むほど、つらい内容でした。
 以下は、日本人として、アフガンに日本を重ねながら、この声明を読んだ私の感想です。

 私たちは、平和憲法をもっています。米国の押しつけというのは、一面の事実を利用した狡猾悪質なデマです。憲法案が出され、これから制定というときに行なわれた総選挙では、圧倒的多数の国民が新憲法支持の候補者に票を投じたのでした。
 しかも、その国民の多くが天皇は残しておけと考えていたのです。
 注目されるのは、当時、のちに駐日大使となったライシャワーが、天皇制を残すべきだと主張しており、その理由が、日本人自身によって、天皇制が有害性を失う過程をたどらせたいからだ、というものだったことです(武田清子『天皇観の相剋』)。
 ライシャワー氏について、私は多くを知りませんが、この一事に関して言えば、聡明な教師のまなざし、と言っていいかもしれません。 
 1946年に、「ソビエト共産主義という問題と取り組むにあたり、我々に降りかかりかねない最大の危険は、我々が取り組んでいる当の相手のようになるのを、自らに許すことであろう」と予見していた当時国務省政策企画室長のジョージ・ケナン(これは今のブッシュ政権を予言したと言っていい)のことを思い合わせても、第二次大戦終了当時のアメリカの政界には賢明な人がいたなとつくづく思います。

 日本の敗戦経験を思えば、米国がいまアフガニスタンに対して行なっている仕打ちは、あまりにも不当かつ残酷です。
 私たちは、かつて米国によって徹底的に打ち負かされながら、国民の要求にみごとに応える改革を与えられた国として、米国に、かつての理性を取り戻すよう「お願いする」義務があるのではないでしょうか。
 自分だけが、よい憲法を与えられて、良い子になって、いい気になっている、愚かな国にはなりたくありません。

2002年9月14日 


付記

 先日は、某団体の集会の呼び掛け人か賛同人に、とお誘いを受けました。私はこれまでその会の呼び掛け人ないし賛同人に名を連ねたことが何度かありましたが、疑問を感じ続けていたところでした。今回、その疑問が明白になったので断りました。
 呼び掛け人の顔ぶれに魅力があったので残念ですが、仕方ありません。
 問題は、その会のチラシに繰り返し使われていた「イスラム人民」という表現です。
 私は、特定のセクトを支持したり、排除したりという考え方はしませんが、こと、9・11以後のことについての一部セクトの「反米闘争を闘うイスラム人民と連帯する」などというスローガンは、まったく支持しません。
 「イスラム人民」という言葉は、たとえば、あのアフガニスタンの中で、イスラム教の性差別と闘う女性たちをまったく考慮に入れない表現です。
 なぜ、第三世界人民でもなく、中東人民、アラブ人民でもなく、アフガン人民、イラク人民、パレスチナ人民でもなく、また「イスラム圏人民」でもなく、「イスラム人民」なのでしょう。地理的区分で、そこにいる人たちをひっくるめても問題はありませんが、宗教によって人びとをひっくくるというのは、乱暴で失礼な話ではありませんか。
 この発想の基本的構造は、文明の衝突などという本を書いて、キリスト教国とイスラム教国の衝突を煽って、ブッシュの軍国主義を煽り立てるハンチントンと同じです。
 ここには、自分達の持ち上げている「イスラム(圏)人民」に対する対等の姿勢が感じられません。イスラム圏の人たちに本当はあまり関心をもっていないのに、こういうとき政治的利用価値があると思って、やたらに持ち上げるというのは、偽善です。
 そして、あれを取らないなら、これ、の二者択一を強い、敵の敵は味方の政治主義を疑いもしないのです。
 少数者に対して無感覚だと思います。

2002年9月18日

RAWA声明--9.11に寄せて
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