神戸事件の意味


 少年が逮捕されたとたんに、梶山静六官房長官(当時)は少年法改正を口にし、橋本竜太郎首相(当時)は「心の教育」と唱えました。
 いかにも、予め用意された対応であり、決まったセリフでした。

 このとき、あのような事件が少年一人で起こせるのか、という当然のリアルな感覚を、私たちのうちのどれだけが貫き通せたでしょうか?
 たくさんのジャーナリストが、あの少年の虚像の中に、若き日の多少ともグレていた自分の延長線上の存在を見いだして、何やら不埒な楽しみに耽ったのではないでしょうか?

 子どもの権利条約を踏みにじることに喜々とする全体主義者(*)は、平凡な子どもをモンスターに仕立てあげることで、日本全体に人権抑圧に迎合する気配をはびこらせようとしたのではないでしょうか? その背景にはオイルショック以降の財界の基本方針があるものと、見なければならないでしょう。
 自分の権利を主張することはよくない、規範が大事などという、とんでもないことを口にする若者が、小林よしのりのマンガなどをもてはやしていますが、それもオイルショックのとき、「労働者の賃上げ要求を聞けば、コストプッシュ・インフレが起こって日本社会は壊滅する」などという財界の恫喝が、労組の抵抗にも遭わずに、すんなり通ってしまってからのことです。
 このときの労組の対応をとっても、日本には、人権抑圧を受け入れやすい文化的土壌があるのではないかと思えてなりません。もちろん、文化の名のもとに、社会の動きを宿命化するような愚劣なことはしてはならないので、私自身、今後、少なくとも戦後の日本における人権意識の発達の遅さは何によって生じたのか、よく研究したいとは思っていますが。

 戦後の日本人は権利ばかり主張したから、社会が混乱した、という観念こそ、財界、保守政党が戦後、まだ何の問題もないうちから一貫してばらまいてきたイデオロギー的偏見なのです。少年法改正が最初に法務省によって唱えられたのは、戦後の少年法ができた1948年のことでした。
 若者たちの心をのぞいてごらんなさい。堅苦しく、不自由な人が多いことがわかるでしょう。いかにも自由で個性的な若者などが町を歩けば「アメリカン・スクールの子かな」なんて言われるくらいなのですから、日本は今なお、若者にとって自由でない国であることは、まちがいないはずなのに。テレビのドラマ、バラエティ番組、セックスを扱う雑誌などの扱い方の水準の低さと実用性のなさ(!!)、セックスシーンのリアリティの欠如、等々、日本の今の若者を、創造性のとぼしい、退屈な精神の人間に作り上げる条件には事欠きません。

 モンスターをでっち上げることに狂奔したジャーナリスト、文化人にとっての「理論的支柱」、と言って過大評価なら、カビにとっての湿った柔らかい培地のごとき役割をはたしたもののひとつが、「集合的無意識」やもろもろのオカルト的観念を盛り込んだ「科学的宗教」を志向する「ユング派の分析心理学」でした。あのオカルト趣味ゆえに、どんなに非現実的な荒唐無稽なことでも、なんでもアリということになってしまったのです。ユング派のなかにも、良心的で理性的な人がいないとは言えませんが、この派の人たちの思考法は、基本的に、差別を助長する危険性をもつと考えるのは、偏見ではないでしょう。

 日本におけるこの派の代表的存在は、林道義と河合隼雄です。
 林は『父性の復権』という、デタラメだらけの家父長制礼賛の本を書いて、永田町や丸の内のファロクラット (phallocrat=ペニス至上主義者)たちに受け、林に劣らぬ母性バッシングの旗頭、河合は、文化庁長官となって、今「心のノート」なる、道徳教育副読本を監修し、日本の子どもをナショナリズムと修身教科書・教育勅語的な抑圧的道徳によって悲惨な境涯に追い込むキャンペーンの先頭に立っています。
 ほんとうは、ユング派などを過大評価したくはないのですが、どうも気にはなります。

 これは偶然でしょうか? 彼らの台頭は、なんと政府の敷いてきた路線と合っていることでしょう。
 こう言っていいだろうと思うのですが、ユング派の心理学は、神秘主義に科学の名によるお墨付きを与え、それによって、国家が国民を国家宗教のほうにひきずるための露払いになっているのではないでしょうか。しかも、もっとはっきりしているのは、それが、特定の階層の人びとの大変うぬぼれ強い特権的な我の達成を大事にすることとセットで、私たちの無意識を全国民共有の「集合的無意識」なるものにしてしまうことで、ほんとうに必要な個人主義の芽をつぶしてしまう危険をもっていることです。
 これは、国家権力にむらがる傲慢な連中の心理学的次元での陰謀だと言っていいでしょう。

 卑怯で知性に欠けたオトナたちのバカさわぎが、抵抗力も発言力もない子どもを血祭りにあげるのは、決して偶然ではないのです。
 人権は、まず子どもから。このことをよく肝に銘じなければなりません。

* 全体主義とは言いますが、ファシズムとは言いません。ヒトラーを連想させることで、いかにも凶悪そうな印象を生むという皮相なレトリックは有害だと思います。ファシズムは全体主義の中でも特殊でポピュリズムの側面があると思いますが、戦前の日本の天皇制や、ソ連の共産党による支配などは、ポピュリズムではないけれども、全体主義には違いないのです。

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