私がA少年寃罪を信じるに至るまで |
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注
* ルポライター=事件や社会的問題について事実や証拠を提示する報告を書く人。A少年が冤罪であるという主張は、さまざまな方面の人々、団体によってなされています。 左翼のセクトである革マル派は、事件直後から、冤罪説を主張してきました。 いまでも、A少年は冤罪だ、と聞いたとたんに、「それって革マルとちがうの?」なんて言う人がいるのですから、あのセクトの人たちは「自分たちの存在感は大したものだ」と言って喜んでいるかもしれません。
いや、私も最初のうちは、どうせ革マルの話だから、と敬遠していたのです。
ちょうどそのころ、いじめと不登校を扱う小さな雑誌に寄稿することがたびたびあったので、子どもの問題について、いいかげんな考え方をすべきではないと思いました。情報は差別なく公平に扱うのが当然です。
これが、まちがったことでしょうか?
ものごとは、世間のつけたレッテルにしたがって、中身を見ずに判断するのが、正しいのですか?
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代表的なところでは、雑誌「週刊金曜日」で人権と報道についてのコラムを連載しておられる山口正紀さん(新聞記者・人権と報道連絡会メンバー)が、事件の直後から一貫して、黒ビニール袋の男を目撃したという証人が何人もいたのに、なぜ急にその線は完全に無視されるようになったのか、等々、重大な疑問を投げかけています。
事件の翌年の2月に月刊誌文藝春秋が掲載した「検事調書」は、センセーショナルに取りざたされました。
しかし、あの調書のおびただしい矛盾、調書の内容そのものが少年冤罪のなによりの証拠ではないかと指摘する声は、一般のマスコミからは抹殺されながらも、粘り強くあげられてきたのです。
私が検討した結果、教えられるところの多かった「神戸事件の真相を考える会」という団体の詳細なパンフレット「神戸小学生惨殺事件の真相」シリーズは、そうした人々の意見や調査結果を集めた労作でした。
それと前後して、関西でも、「神戸事件と報道を考える会」という団体が作られ、地道に少年A冤罪説を論証し、人々の間に広める運動に取り組んでいます。
これらの人々の情報や見解にふれることで、私は、神戸事件をめぐる世間一般の論調は信用するに足りないという確信をもちました。
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私が、神戸事件に対する大人たちの反応はヒステリックだった、というとき、思い浮かべずにいられないのは、こうした名のある人たちの、権威主義、事大主義、物事をレッテルで判断する態度、そして「Aは天才的モンスター」だという根拠のないオカルト信者的思い込みです。
繰り返しますが、彼らは、まちがいなく、少年A冤罪説のパンフなんか、これっぽっちも読んではいません。
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土師淳君のお父さんである土師守さんは『淳』(新潮社)という本を発表されています。
その『淳』ですが、内容的には、大いに重要なものを含んでいます。それは、いくら新潮社が反人権主義のいいかげんな企業であっても、これだけはデッチあげではないと信じていい内容なのです。
土師守さんが自ら語って、編集者に書かせたにちがいない、そのくだりを以下引用します。
警察の人の話では、抵抗したあとがまったくない、ということから、土師さんは、「だから顔見知りの犯行だ」という意味の主張につなげています。 これが「A少年こそ犯人にまちがいない」という意味であることは、説明を要しないでしょう。
しかし、抵抗しないで殺されるというのは、どういう状況なのでしょうか?
ですから、被害者の父親、土師守さんが、A少年クロの証拠として挙げておられる、「抵抗の跡がない」という事実こそ、少年Aが殺害犯人ではないことの証拠なのです。
土師さんにとって、検事調書を読むのは、淳君の死後数年たった今もなお、辛いことだとは思います。
土師さんは、あの調書を読んで、「これは矛盾しているな」という思いが、チラリと脳裏をかすめたにせよ、A少年が犯人であるという信念はゆるがなかった、のかもしれません。
肉親を殺された人は、いったん誰かを犯人だと言われると、それを固く信じることが多いように思います。
しかし、土師さんには済みませんが、私たちは、遺族の方とは別の見方をすることが可能です。
ある犯罪事件で、自白以外に証拠がなかったら、それは冤罪ではないかと疑うべきである。またもし、その自白の内容が矛盾だらけであったら、それは冤罪だと思うべきである・・・
私を革マルの宣伝をしている有害分子だと決めつける人にも出くわしたことがありますが、その後その人が『国民の歴史』で高名な西尾幹二を「先生」と呼んで心酔する人物であることが判明したのは傑作でした。
** ノンフィクション作家 ノンフィクションとは「話を作らない」という意味。「作家」とは、「話を作る人」という意味である。これでわかるように、これは矛盾した職業である。米国で始まったニュージャーナリズムの潮流の影響を受けたとされ、読者は客観的な事実の提示では満足しないから、文学的、刺激的な脚色をしなければならない、という考えに立脚する。テレビの低劣なドキュメントや娯楽番組を作るディレクターと同じ発想で、読者を愚弄する職業。
***哲学者≠philosopher 哲学はphilosophyあるいはphilosophieの訳から来た言葉である。そのため、日本で哲学といえば、西洋思想の「訳」であることが普通。したがって、哲学者とは、西洋の知的世界の流行を紹介するのをなりわいとする人。中村氏は、そういう小売販売業界でも、専門店ではなく、スーパー的おもむきをもつ。同氏の『感性の覚醒』などを読んで感性が覚醒する人がいたら、お会いしたいと思う。
****神戸事件の真相を究明する会のパンフ第4集に掲載された、北海道の女性の意見は、そのような見方を代表している。 |