「A少年供述調書の虚構」(その2)
だが、このような頭部切断の物語もまた、検事の稚拙な作り話にすぎません。
まず調書は、「自宅を出た時間は……午後一時から午後三時までの間だったと思います」などと書いています。しかし、これは、でたらめなのです。
A少年のお父さんは、「二十五日はどうですか? 日曜日ですが……」という私たちの質問に、次のように答えてくれたのです。
「私はこの日は、朝の8時頃から、下の子を連れてタンク山へJ君の捜索に行っていました。私が息子(A少年)のママチャリに乗ってきてしまったのですが、午後12時30分頃、……『コープこうべ』の前で休んでいると、息子が自転車でやってきて『自分のママチャリと替えてくれ』というので、交換しました。息子は『ビブロスヘ行く』と言って、その方角に行きました。……それからまた、私は下の子と一緒に、J君を探すためにタンク山に登っていったのです」。
既に私たちが明らかにしてきたように、五月二十五日(日曜日)は行方不明になったJ君を捜すために、大がかりな捜索がなされたのでした。警察や学校の先生やPTAや自治会の人々など総勢約百五十人が、この捜索に加わり、タンク山にも登っていきました。しかも警察は、朝の10時から警察犬を連れてタンク山に出動していたのです。そして先ほどのお父さんの証言にあるように、A少年のご家族もまた、この捜索に朝から加わっておられたのです。
このような状況のなかで、A少年が、逃げ場のない檻のようなアンテナ施設内に自ら入りこむということは、到底考えられません。施設には三方から道がついており、いつ人が来るかも知れず、しかも施設内は道から丸見えなのであって、この施設を実際に視察した人は誰でも「ここではやらない。やる気にならないよ」と言われます。ましてやそこで、長い時間をかけてJ君の頭部を切断し、それを鑑賞し、目や口を切り、さらに血を飲んだ、などということは、断じてありえないことなのです。そして現に、当時の新聞も「局舎下に遺体はなかった」と報道していたのです〔21頁の下段【↓】を参照〕。
調書は、「B君【=J君 以下同】の首が溝の上付近に来るように置きました」といっています。しかし、J君の遺体は第二頸椎を斜めにほぼ45度の角度で切断されていたのであり、そのように切るためには、大きな段差のあるところで、仰向けにして首を垂らさなければ不可能ということは、殆どすべての法医学者の一致した見解であり、私たちがパンフレット『続神戸小学生惨殺事件の真相』で指摘してきたところです〔20頁の図【↓】を参照〕。実際、龍野教授自身が「段差がなければ無理」ということを認めたうえで、こう言っているのです。
「あそこのとこに溝があるんですよ。ひょっとすればですよ。そこの血液の調査は警察のする仕事ですから、僕は、あったかなかったかは明言しません。けれども、溝のところに頭を下げれば、段があるわけですから、切りやすかったんじゃないかと。これはあくまで推測ですよ」(十月十四日)。
ところが、この溝の幅はジュースの缶の長さほどしかなく〔カラー口絵参照〕、赤ん坊の頭でも入らないほど間隔の狭いものです。J君の頭部は絶対に入らず、「頭を下げる」ことなどできないのです〔右図【下図】参照〕。
そもそも警察の当初のリーク情報では、遺体の切断は局舎前のコンクリート面で行われたとされていたのでした。しかしそこには血痕もなく、いかにも目立つ場所なので、調書では局舎裏に変えたのでしょう。しかしこうすることにより彼らはとんだ馬脚をあらわしてしまったのです。
「黒いビニール袋」!?
それだけではありません。この「黒のビニール袋」というものは、神戸市当局の四年前からの指導によって(黒いゴミ袋は中が見えない、というのがその理由)、須磨区の住民の間で全く使われておらず、スーパーなどでも売られてはいないのです〔カラー口絵参照〕。
いやそもそも警察の当初のリーク情報によれば、遺体の下に敷いたのはビニール袋などではなく、ビニールシートだったはずです。龍野教授も言っています。「警察に聞いたところによると、血はたくさん出ていた。ビニールシートを下に敷いていたらしい」と(十月九日)。
このビニールシート自体が、アンテナ基地内に血痕が全く残っていないことと辻棲を合わせるために警察がもち出した作り話にちがいないのですが、しかしビニールシートでは、それをどこから持ってきてどう処分したかが問題となってしまいます。そこで検事は、「黒のビニール袋」に途中から変更したというわけなのでしょう(もっともこの「黒のビニール袋」をどう処分したかについても、調書は一言も言及していないのですが)。
おそらく検事は必死に考えたのでしょう---少年が血を飲んでしまったことにすれば施設内に血痕がなかったことの説明がつくし、少年の「異常さ」を印象づけることもできる、と。「血がこぼれないように」とか(もしもA少年が犯人なら、遺体の胴体部はそのまま放置するのだから、血をこぼさないように、とことさら考えるはずがない!)「予想していた程は血は出なかった」とかと調書が懸命に述べたてているのは、施設内に血のりがなかったことについての検事のみえすいた弁解にほかならないのです。
だが、黒いゴミ袋は使わないという須磨区住民の事情もよく知らなかったことが命取り。ここでもまた、愚かな検事は、とんだ馬脚をあらわしてしまったのです。
「糸ノコギリ」!?
調書によれば、A少年は、アンテナ施設入口の南京錠もJ君の遺体の切断も、全て一本のノコギリで行ったとされています。そして「供述調書」は、このノコギリのことを、一貫して「糸ノコギリ」と言い表わしているのです。7月5日付調書では、この「糸ノコギリ」を検事とA少年が写真で確認したことになっています。そして七月六日に向畑ノ池から金ノコギリがひきあげられて以降の7月7日付調書でも、「糸ノコギリ」となっているのです。ところが、7月17日付の調書において、この凶器のノコギリは「糸ノコ」から「金ノコ」へとあわてて変更されているのです。
僕は、別の機会で話しているように、B君の首を切断するのに使った糸ノコギリは、その後、向畑ノ池に捨てましたが、そのことを僕が話したので、警察官が向畑ノ池からノコギリを発見しました。だが、これは、決して少年がノコギリの名称をとり違えていたということではありません。じつに、少年の自白を誘導しつつ調書をでっちあげている検事自身が、糸ノコギリをイメージしつつ物語をこしらえていたのであり、後でそれに気づいて慌てて、あたかも少年が間違えていたかのようにとり繕ったのです。
このことは、「ノコの刃が細かったせいか、〔遺体は〕スムーズに切れ」た(7月7日付調書)という表現の中に歴然としています。糸ノコと金ノコとでは、大きさも形状も、刃の幅も全く違っており、金ノコを「細かった」などと表現するはずはないからです。それだけでなく、後の7月9日付調書でも、糸ノコギリを「補助カバンに入れた」とか「これ〔ノコギリの入った補助カバン〕を腹の中に入れた」とかさらに「首と一緒にカバンに入れた」とかの、非現実的な話が一杯出てきます〔カラー口絵参照〕。これはあきらかに、検事自身が小さな糸ノコギリをイメージして物語を作っていることを示しているのです。
糸ノコは遺体切断の凶器たリえない!
ちなみに、龍野教授自身が、「前から一気にスパッと斜めに切るなどということが、金ノコでできるんですか」という私たちの問いに対して、こう言ったのです。「だからナイフを使っているかもしれないということを、警察に言ってはいるんだ。しかし供述では金ノコ一本になっていると警察に言われたので、金ノコでも不可能ではないということを僕は言った」と(十月九日)。
私たちが、小冊子『続神戸小学生惨殺事件の真相』において、法医学者や解剖学者らの専門家の意見を基礎につぶさに検証してきたように、J君の遺体の切断面や死斑の全ては、まさにそれが冷凍保存後に電動丸ノコの様なもので一気に切断されたことを物語っていること---このことの正しさが、「供述調書」におけるデタラメな切断物語によって、いよいよ逆証されているのだといわねばなりません。
ところで、一本の金ノコギリで南京錠を切りしかもJ君の頭部を切断したというのが事実なら、南京錠のツルから出る真鍮の粉の一部は、遺体の切断面にとりわけ胴体部(一度も洗われていない)のそれに確実に付着していたはずです。
しかしこれに関しても、龍野教授は、私たちの質問に答えてこう言っているのです。
「遺体の断面はですね、警察の方では微物採取をしとるわけです。テープで採取し、それを科学的に検査したり、あるいは顕微鏡で検査したり、ということは警察でやっとるわけです。僕の方は遺体が来たときには、肉眼的になかった。だからそれはそちらの方で聞いていただきたい」。
しかし警察はこの金属粉については、マスコミヘのリークにおいてさえ一言も触れてこなかったのであり、今回の検事調書においてもまた然りなのです。
そして、7月17日付調書によれば、この金ノコギリとアンテナ基地に付いていた南京錠の二つだけは、確かに「向畑ノ池」(むこうはたのいけ)へ捨てたというのですが、その他のもの---すりかえた南京錠のカギ、この錠とワンセットであったもうひとつの南京錠とそのカギ等について、これらをいつどこへ捨てたのかは、まったく曖昧になっています。このことは検事が、A少年の自供通りに向畑ノ池から金ノコがみつかったというただこの一点をもって、あたかも「A少年の犯行の裏が取れた」かのように言いなす、そのための布石を打ったことを意味しているのです。
ちなみに、アンテナ施設入口についていた件の南京錠(ボルト・クリッパーなどで切断されたにちがいないこの錠は、その鍵を管理事務所が持っているがゆえにすりかえがきかない)は、警察が池の水を全部汲み出し金属探知器を駆使し、連日百人の警官を動員して八日間探しても「見つからなかった」ことは、周知の事実です。
そしてまた、この金ノコギリをはじめ、A少年がJ君の殺害と頭部切断の両方に使ったとされている手袋、二つのビニール袋、補助カバン---これら一切のものについて、そのルミノール反応の有無を警察は今なおあきらかにしていないのです。
もはやあきらかでしょう---「A少年=犯人」説を裏づけるはずの全ての“物証”が、今や音をたてて崩れつつあるということが。
検事調書は、五月二十五日、アンテナ基地で遺体を切断したA少年が「この首を、ゆっくり鑑賞しようと考え」、頭部を血の入ったビニール袋とともにもう一枚のビニール袋に入れて右手で持ち、糸ノコギリは持ってきていた補助カバンに入れカバンを折り畳んで腹の中に入れて、入角ノ池 (いれずみのいけ)まで行き、そのほとりにあった「木の根本の穴」に隠した、という物語を描き出しています。
……僕は、持って来ていたもう一つの黒色のビニール袋の中にB君の首を入れ、更に、そのビニール袋の中には、B君の血が入っているビニール袋も入れました……。このストーリーの荒唐無稽さは、本書のカラー口絵を見れば、一目瞭然です。
たとえば、頭というものは重いもので、大人の体重の七分の一から八分の一あるといわれます。子供の場合は、さらに頭の重さの割合は増えて、六分の一くらいになるのだそうです。J君の体重は四十二キロといわれており、おそらく、彼の頭部の重さは七キロ近くあるでしょう。痛ましい犠牲となられたJ君のことを思うと次のようなたとえは適切ではないのですが、たとえば七キロの米をビニール袋に入れて持ち運ぶことを想像してみて下さい。その重さにビニール袋は伸びて破れかねません。休み休みならともかく、「ボーッとした……気持ち」で街の中を長時間、どうやって歩けるというのでしょうか。またロープに頼らなければ昇り降りできない入角ノ池へ、どうやって降りたったというのでしょうか。
それだけではありません。補助カバンというのは、縦四十三センチ、横三十七センチ、幅十センチの大きさの布製で、布地の風合いは厚地のジーンズ風のものです。蓋は何もありません。そして、その持ち手は短くて、肩にかけられる長さはなく、手でもって提げるしかないのです。
調書がいうように、この補助カバンに長さ四十七センチ・幅十センチの金ノコを入れるには、斜めに対角線上にしか入れられず、二つに折るといっても角の方を曲げることしかできないのです。そしてこれをトレーナーとジーパン姿のA少年が腹の中に入れたとしたら、その端は確実に少年の首のあたりまで届いてしまうはずなのです。
この異様ないでたちのA少年を、J君の行方を探すための大がかりな捜索で街中が騒然としているなかで(しかも日曜日!)、誰一人としてみかけなかった、ということがはたしてありうるでしょうか?
しかも少年は途中から、補助カバンの中に首と金ノコの双方を入れたというのです。するとカバンは中が丸見えになるくらいにパンパンにふくらんでしまうはずです。ところが少年は、街の中で学校の女の人に会った(女の人の方は気づかなかった)だけでなく、森の中で、一見してJ君捜索とわかる「三名の機動隊と思える人達と会」ったというのです。警察がこのカバンの中を覗きもしなかったのは、不思議というものです。もちろん、この機動隊員の証言というものは、どこにも明らかにされてはいないのです。
そしてさらに、検事調書ではじめて開陳されたこの「木の根本の穴」なるものはちょっとした窪みならともかく、「穴」といえるようなものは私たちの調査ではどこにもありません。むろん住民も「見たことがない」といっているのです。いや調書においてさえ、「写真に写っている穴に、B君の首を置いたかどうかまでははっきりしません」という“供述”が出てくる始末なのです。
このようなストーリーは、検事が机の上でこしらえた絵空事でしかないということは、もはや明らかでしょう。
ちなみに、従来のリーク情報では、頭部は「草むらに放置した」あるいは「フェンス外の別の場所に隠した」、従って五月二十六日夕方タンク山へ首を取りに行った、とされていたのでした。ところが調書では、首を切ったその日のうちに入角ノ池へ隠した、という話に変えているのです。これは当初の警察のリーク情報のように、捜索のまっただ中で五月二十六日夕方にもう一度タンク山へ首を取りに行き、自宅へ持ち帰って夜風呂場で洗ったことにするのは、家族の証言などがあって完全に無理が生じたからにちがいありません。そこで検事は、住民が滅多に足を運ばない入角ノ池へ(住民の多くはこの池の呼び名さえ知らない)、この日の昼間に行ったことにしたのでしょう。これに多少とも真実味を持たせようとして、途中森の中で三名の機動隊員と会ったなどという作り話までちりばめて。
A少年にはアリバイがある!
正確な時間は覚えていませんが、その日僕が、入角ノ池へ行くために、家を出てから最後にB君の首を天井裏に隠すまでに掛かった時間は、約一時間位だったと思います。 [7月10日付調書]まずこれは時間的に可能なのでしょうか?
入角ノ池(いれずみのいけ) この池は山の中のすり鉢の底のような所にある。 付近住民の多くは、この池の呼び名も知らない
いうまでもなく友が丘は、山をきりひらいて造った街で、その周辺には元のままの山の姿が残っています。友が丘西公園から入角ノ池へ行く道は、まさにそういう所で、薮こぎをしながらしかすすめない道です。そして、入角ノ池は、四方を切り立った崖のような山肌に囲まれたすり鉢の底のようなところにあり、ロープを伝わってでなければ昇り降りできないのです〔カラー口絵参照〕。この森の中の道を行くだけで片道約二十分(往復で四十分)はかかるでしょう。しかも少年は池のほとりで五〜六分、首を鑑賞したことになっています。それからまた元の道を引き返し、頭部を家へ持ち帰り、そして約十五分かけて家の風呂場で洗って天井裏に隠したというのです。
これだけで、すでに一時間を越えてしまいます。ロープで池に昇り降りする時間も、家から友が丘西公園まで往復する時間も、全くないはずなのです。
では、なぜこんな無理な作り話をこしらえなければならなかったのでしょうか? 実はA少年のお母さんのこんな証言があるのです。「五月二十六日はどうでしたか?」という私たちの問いに、お母さんは言われました。
「私はこの日、J君の家へ留守番に、電話番に行っていて、家に帰ったのが午後2時でした。するとあの子が二階からパジャマ姿で降りてきたんです。それから少しして、学校のT先生も来であの子に会いました」。
お母さんはこのことを警察にも話したと言います。
じつにこの母親の証言こそは、この日のA少年にはアリバイがあることを示すものといえましょう。そしてまさにこの証言があるからこそ、検事は、どんなにそれが無理な話でも、午後2時までにはA少年がこの日の全ての行動を完了したことにせざるをえなかったにちがいないのです。
ちなみに調書には、検事とA少年との次のようなやりとりなるものが出てきます。
問 君は、その日、××××先生(編注・T中学校教諭)が君の家に来て、君と話したと言っているが、どうか。だが、仮にA少年の犯行が事実だとするなら、「もしあっているとすれば……天井裏に隠した後だと思います」などと言うはずはありません。ここには、家族のものがいつ帰るかとハラハラしながら風呂場で首を洗うという、当人ならではの臨場感は、ひとかけらもないのです。
家族が死臭に気づかぬはずはない!
まず、頭部を家に置けば、家族の人が死臭に気づかないはずがないのです。普通、死者を安置する場合には、耳や鼻の穴に綿で栓をし、口が開かないように枕で固定し、さらにドライアイスで保存します。それでも死臭は漂うので、香を焚くのです。ましてJ君の頭部は切断されており、しかも死後三日も経っているのですから、強烈な死臭が漂わないはずはないのです。
しかもこの頭部は、タンク山に一日、切断後入角ノ池の「穴」に一日置いていたとされているのですから、血の臭いをかいだ蟻などがビニール袋に入りこみ、切断面や耳・鼻・口に群がっているはずです。
また、入角ノ池で観察したJ君の顔は「青白くなっていた」というのですが、これも検事が想像で書いたデタラメいがいの何ものでもありません。絞殺死体は、呼吸は止まっても血液はなおも動脈を通って上へ昇ってゆくので(他方、静脈は狭まって下にはさがらない)、頭部に大量の血がたまり、顔色は赤くなるのだそうです。これは、龍野教授に教えられたことでもあり、また実際に五月二十七日早朝に友が丘中学校正門で頭部を見た人の目撃証言とも一致しているのです。
さらに、J君の血をビニール袋に入れたまま、頭部と一緒に自宅まで持ち帰り、「B君の血は、全て風呂場で流してしまいました」(7月9日付調書)というのは、いかにも不自然な話です。
そして、J君の首を洗うのに使ったタライ、髪をとかしたクシかブラシ、タオル、そして風呂場そのものこれらから、ルミノール反応は検出されたのでしょうか? これらについてもまた、警察は一切こたえていないのです。
調書によれば、五月二十七日、少年は「午前一時頃から午前三時頃までの問に、B君の首を置きに行った」とされています。しかしこの物語も至るところで破綻しているのです。
A少年は、首を補助カバンに入れ電気コードニ、三本をつないで、二階の窓から庭へおろし、自分は窓から外へ出た、帰りも「やはり家の側にある鉄の棚を利用して、窓から二階の僕の部屋に戻」った、ということになっています。しかしそれが全く不可能であることは、カラー口絵で見たとおりです。
A少年のお父さんはこう言っておられます---「あの子は力はないし、そんなに器用じゃないし……」「音がしないでというのは無理です」と。
浴室からも天井裏からも血液反応は出ていない!
「鉄の棚」というのは、植木鉢を置く台のことで、実際に鉢が置いてあります。しかもこの棚は、A少年の部屋の窓の真下でなく横にはずれた所に位置しているのです〔口絵参照〕。そして地面から二階まで、手で握ったり足を掛けたりできるものはないのです。だから、ここを昇り降りするには、ロッククライミングのような技術がなければ無理なのです。たとえそれができると仮定してみても、鉄の棚がガタガタ鳴るだけでなく、両親が寝ている部屋の雨戸を足で激しく蹴って叩くことになるはずなのです。お父さんが「音がしないでというのは無理」と言うのは、そういう意味なのです。それくらいなら、軋む階段を昇り降りする方が、よほどましというものです。
ところでA少年は、学校の正門ヘママチャリで行くと、まず塀の上に頭部を置いたが下に落ちてしまったので、次に門の中央付近に置いた、とされています。
しかし、A少年の身長は一六〇センチ余りです。他方、塀の高さは一九八センチです。この塀の上にA少年が物を置くには、精一杯に背伸びし、かつ手の指もいっぱいに伸ばして、風船のような軽いものならかろうじて置けるだけなのです。つまり、重い首を置くことは、到底無理なのです。
それだけではありません。J君の頭部は5時30分にはプレートの下に、6時30分には向かって左の端に、そして6時40分には中央にと、5時以降何回も移動させられていたことは、私たちが現地調査にもとづいて指摘してきたとおりです〔冊子『神戸小学生惨殺事件の真相』参照〕。
5時10分には「首はなかった」ことを、神戸新聞の配達員が証言しています。そして5時30分には首はプレートの下にあったことを、あるおばあさんは家族の同席のもとではっきりとその様子とともに私たちに証言してくれたのです。また、6時30分にはそれは、正門の左の端の方にあったことを、毎日新聞の配達員の方が証言してくれているのです。ちなみに、正門の左の端の方にも血痕が歴然と残っていたということは、当時のTVのビデオもくっきりと映しだしており、また複数の記者の人々が認めていることなのです。
当会の調査団がつかんだ頭部移動の事実
奇妙な断定と弁明 問 五月二七日午前五時頃に、T中学校の正門に来た人が、B君の首はなかったと話しているようだが、その点はどうか。 答 単なる思い違いです。何故なら、僕の親は、午前五時頃には、台所にいるので、とてもその様な時間帯にB君の首を持って家を出ること等不可能なのです。少なくとも午前三時頃まででなければ、親に知られずに行動することは出来ないのです。従って、B君の首を正門前に置いたのは、遅くとも午前三時頃までだと思います。……マスコミは、犯人像を三〇代から四〇代の男としたり、黒のブルーバードが目撃されたとか……と報道していまし…た。 しかも、その報道の内容は、ほとんど嘘でした。 [7月21日付調書]
だがこれこそは、検事が、いかにして誘導尋問をおこないつつ「供述調書」をでっちあげていくのかを、はからずも露呈させたものというべきでしょう。
もしも本当に少年が首を正門に置いたのであれば、目撃者の証言を「単なる思い違いです」などと否定する必要はまったくなく、「これこれの時刻に僕が置いたのだから、そんなことはありえません」と、事実だけを答えるに決まっています。ましてや「僕の親は、午前五時頃には、台所にいるので、とてもその様な時間帯に……家を出ること等不可能」などとわざわざ“理屈”をもちだす必要は、さらさらないはずです。「自分の親は五時には台所にいるので、午前三時までに全てを済まそうと考え、午前一時に行動を起こすことを決意し、実行した」というように、主体的に現実を再生産するはずなのだからです。さらに「犯人は三〜四〇歳台の男だとか黒のブルーバードが目撃されたとかの報道の内容は、ほとんど嘘でした」というのも、同様です。
はじめにまず答があり(3時までに自分がやった)、答に見合う理由をあげつらい(5時以降は無理だから)、こうした理屈をぶつけることにより目撃者の見た生きた現実を否定する、この奇妙な弁解こそは、「供述調書」がでっちあげであることを証明するものであり、なにごとにせよ思惟し行動する人間その人の立場にわが身をうつし入れてみることを知らぬ“優等生”検事の低能ぶりをも示すものなのです。
頭部を置いた時刻について当初は5時〜6時調で話をとおそうと考えていたにもかかわらず、おそらくはご両親の証言などを聞いてこれを断念し、急きょ1時〜3時説に強引に切りかえざるをえなくなった警察および検察。彼らが汗だくだくになって目撃証言の抹殺に躍起となっている様が、ありありと浮かぶではありませんか。
検事調書にしるされている右の文章は、一体何を意味するのでしょうか? A少年は直観像素質者とされているにもかかわらず警察が実物を見せて何度も何度も第一犯行声明を「再現」させようとしてみても、「怨」という字が書けずに「恐」になってしまったにちがいありません。そこで検事は、こういう“弁解”を、調書に記さざるをえなかったにちがいないのです。
しかも、『文藝春秋』は調書の付属資料の一切を掲載から省きましたが、それは、もしもそれを公にしていたら、筆跡のちがいが歴然となるからにちがいないのです。
カラー口絵冒頭の二つをよく見比べれば、右のことは明白です。本物の声明は、まるで定規でも使ったかのように、文字の全ての線が直線で書かれ、しかもピタリと止まっています。ところがA少年が書かされた方は、後の方へいけばいくほど、草書体のような流れが出てしまっているのです。前者は、強い意志力とその持続力をもつ大人のものであり、後者はそれを持たない子供のものとわかるのです。 次に、第二犯行声明についてです。 手紙を書くのに要した時間は、一時間三〇分位掛かったと思います。だが、これこそはまさに、供述調書なるものがでたらめな検事の作文であることを、検事の低能ぶりとともに、見事に示したものではないでしょうか?
この検事には、あの第二声明に示される高い思弁力、論理的思考力および表現力が理解できないだけでなく、「物事に集中しない」A少年ならずとも、第一、第二あわせて千四百字をこえるあの神戸新聞社宛の「挑戦状」を書きあげるのにどれ程の時間を要するものかさえもわからないのです。
「……あたかも僕の他に犯人がいるとして、その犯人像を、僕がイメージして、僕が今まで持っている僕の知識を駆使して、僕がイメージしている犯人像に僕自身がなりきって、手紙を書くことにしたのです。したがって、僕が書いた手紙の内容は、あくまでも僕がイメージした犯人像が持っている動機を書いたものであり、いわば僕の作文であって……」*などと、「僕」「僕」とシャックリのようにくり返しつつ、検事は必死になって調書を書いているのですが、「語るに落つ」とはこのことでしょう。
【掲載者注 * こういう文章は作文能力の比較的低い人のものである。まともな文章を書ける人なら「あたかも僕のほかに犯人がいるようなつもりになって、僕が持っている知識を駆使して、その犯人像をイメージし、自分がその犯人になりきって手紙を書くことにしたのです・・・」とでも書くだろう。この検事がいくら「あたかも犯人になりきったかのようなつもりで」文章をひねり出そうとしても、自分のもっている文章力を越えるわけにいかないのは、自明のことである。ところで、「懲役13年」ほどの文章力をもった少年が、こんな稚拙な文章を書くであろうか。】
しかも調書によれば、「僕が、はっきり別のものから取ったと覚えているのは、『吊るされる』という言葉でした」「僕が、漢字を知らなくて、辞書を引いて書いた漢字については覚えています。『愚弄』『追跡』『銜えさせた』『滲んで』でした」ということです。しかしご両親も「あの子は絵は上手だが、国語は大の苦手で、漢字がよく書けない」と言われるように、そして「三年生になって」という最近公表された作文をみればあきらかなように、あの声明は、漢字の使い方ひとつをとってみてもA少年のものではないことが明白なのです。
なお、この文章等を書くのに利用した「スケッチブック」や『瑪羅門の家族』の第三巻は、後で燃やしたと思います。 [7月10日付調書]
ところで調書によれば、この第一、第二犯行声明の作成にまつわる全ての物証は、うやむやにされてしまっています。「積年の大怨」という句をとったマンガ本『瑪羅門の家族・第三巻』は「後で燃やしたと思います」。第二声明を書くにあたって「粗筋みたいな文章を書いたノート」も、第一、第二犯行声明に使用した「スケッチブック」も、「後で燃やしたと思います」! 一体この世間知らずの無能な検事は、本もノートもとても燃えにくいもので、それを燃やせば記憶に鮮明に残らないはずがないということを、全然知らないのでしょうか。
さらに、この声明文の投函場所について、「供述調書」は次のように言っています。
僕は、神戸西郵便局管内から投函されたと言っているマスコミは嘘だと思いました。 [7月13日付調書]
「マスコミは嘘だと思いました」とは!? もしもA少年が本当に声明文を投函した本人であれば、決してこんな人ごとのような表現はとらないでしょう。ここには、検事が「A少年の供述」というかたちをとって、「神戸西局管内で投函」というマスコミの報道を必死になってうち消している姿が、鮮やかに示されているといわねばなりません。
すでに私たちが『続神戸小学生惨殺事件の真相」であきらかにしてきたように、目撃者も物証も存在しているにもかかわらず、声明文の投函場所を神戸西局管内から須磨北局管内へと強引にすりかえたのが、警察でした。それはおそらく、六月三日にA少年が、自宅から遠く離れた神戸西局へ行ったことにする(往復一時間以上かかる)のは、無理だったからにちがいありません〔前頁の図【下図 ↓】参照〕。そして、警察がこの強引なすりかえを正当化した唯一の根拠は、「A少年の供述」だったのです。ところがその「供述」とは、蓋をあけてみれば、まさに警察の大ウソを逆に立証するようなものでしかない、というわけです。
図 神戸西局は友が丘地区から約10km離れている。 地下鉄を使って往復1時間以上かかる。 なおつけ加えれば、調書は、かの「懲役13年」については、一言もふれてはいません。これについては、「『懲役13年』の筆者はA少年ではない」〔36頁〕を参照して下さい。
最後に、三月女児連続通り魔事件についても、検事調書の内容は矛盾だらけです。
僕は、ズボンのベルトのところに差し込んでいた鉄のハンマーの柄の部分を右手ですくい上げるようにして取り出し、その鉄のハンマーを右手に持ったまま、その右手が丁度僕の右耳付近にくる位まで鉄のハンマーを振り上げて、力を込めて女の子の頭を殴り付けました。 [7月21日付調書]調書によれば、A少年は「鉄のハンマー」=八角玄のう(石を砕くための金ヅチのこと)を、右耳あたりの高さから振りおろしたとされています。しかし、殺害された彩花ちゃんの頭の傷〔左の図参照 【下図↓】〕は、調書がいうように、右利きのA少年が小さな金ヅチを前から振りおろすことによってできるようなものではなかったのです。
彩花ちゃんの傷の位置・形状から 「犯人は左利き・凶器はバット」 と推測されていた!
じっさい、龍野教授の司法解剖所見にもとづいて、事件直後には、次のような報道がなされていたのでした。「凶器は棒状のもの」で「左から右に水平に打ちつけられた」、「犯人は左利き」で「背後から襲った」、と。
この龍野教授は、昨九七年秋に、私たちにたいしても次のように明言したのです。
「左側頭部の骨折の形状からして、上から降りおろしたんではなく、左から水平に殴っとんですよ」
そして凶器についても「こんなちっちゃい金ヅチではあかんよと、こんなん違うよということは、警察には言うとるわけです」「陥没骨折の長さと幅からすると、それなりに広い面積の棒状のもの---硬い鈍体といいますけど---たとえば野球のバットのようなものですね」「しかし、いま前からおそらく殴ったいうんで、取り調べではなってますよね。ですから、バットでもいいんですが、大きめの金ヅチ・八角玄のうかもわからんと、そうなっているわけですよ」
いま調書を読むと、警察が、当初から「硬い鈍体=バット」説をとっていた龍野教授をねじふせ、「八角玄のうによる正面からの殴打」説で強引におしきったことが、よくわかるのです。
ところで、この八角玄のうにせよ、ナイフにせよ、さらには「ショックハンマー」にせよ、私たちが調査したところ、二、三月通り魔事件の全ての“物証”が、多くの謎にまとわりつかれているのです。
まず、三月十六日の彩花ちゃん殺害の凶器は、調書では「鉄のハンマー」となっていますが、神戸家裁の決定要旨では二・五キログラムの八角げんのう」とされています。しかしA少年が万引きしたとされるコープリビングセンターで売られている八角玄のうの大きさは、「小」ないし「豆」しかなく(○・五キログラム程度)、一・五キログラムのそれは売られていないのです。
また、三月事件で使われ、J君の顔を切り裂くためにも使用されたとされるナイフ=クリ刀についても、奇妙なのです。
A少年がナイフ(「龍馬のナイフ」)を三本しか持っていなかったことは、7月7日付調書と7月9日付調書の二度にわたって“確認”されています。ところが七月九日に、向畑ノ池から、金ヅチ二本とナイフ一本が引き上げられたのです。
少年はナイフを三本持っていたと「供述」し、その三本とも警察はすでに押収していたとすれば、一体この「池からあがったナイフ」は誰のものなのでしょうか?
兵庫県警の対応も奇妙なものでした。金ノコの発見の際にあれほどのパフォーマンスを演じたのとはうってかわって、彼らは、この日詰めかけた報道陣に、ただ金ヅチ一本があがったことだけをリークし、ナイフのことはひた隠しにしたのです。
さらに二月女児殴打事件で使われたとされている「ショックハンマー」は、正しくは「ショックレスハンマー」といい、コープリビングセンターで売られているウレタン製のものには、「ショックレスハンマー」と大きく表示されているのです。そしてこのハンマーがコープリビングセンターの店頭におかれるようになったのは、実は「最近である」(九八年二月十五日の店員の証言)というのです。
このように、二、三月連続通り慶事件の全ての“物証”もまた、全くあやふやなのです。なお、三月事件の「日記兼実験ノート」(「犯行メモ」)にまつわる疑惑については、「浮き彫りになった『朝日新聞』の役割」〔40頁〕を参照してください。
〔上〕三月事件の凶器とされた八角玄能。「小375ゥ」の表示がある。家裁決定で「凶器」とされた「1・5「ゥ」のものはコープリピングセンターで売られていない
〔下〕二月事件の凶器とされたショックレスハンマー。店に置かれたのは最近で、97年2月当時は売られていなかった(98年2月15日、店員の話)
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