あいまいな日本人
神戸事件の問題点

品野 実 (毎日新聞社終身名誉社員)
「少年A」とされている人のご両親へ

北九州市でのJCJ(日本ジャーナリスト会議)と新聞OB会主催の「8・15」平和集会に呼ばれた際「神戸事件の真相を究明する会」の方から「神戸小学生惨殺事件の真相」を頂きました。

帰宅後、読んでみて愕然としました。現役を退いていてジャーナリズムの感覚が鈍感になっていたのか。テレビをはじめマスコミが「少年犯罪」に的を絞り、「少年法」を厳しくしろとか、少年の両親のお詫びの声がないとか、とヒステリックな話に飛躍してきたことに対しては怒りを感じていた矢先のことでした。

被害者のご両親たちも被害者であり、怒りは分かりますが、誰が加害者であっても、その家族の方もまた居たたまれぬほどの心の被害者であることに変わりはありません。

国家権力のシステムを、個人の意志や意見より上位に見る人間の旧習が、あの狂った侵略と暴力の戦争を起こし、止められなかった歴史の教訓が、また忘れられようとしている状況があります。この憂いは司法やマスコミの世界でも変わりがありません。

しかし、ジャーナリズムをはじめ、どの分野にも良心を失わぬ人々も少なくありません。「究明する会」の方々の努力も一方ならぬものがあります。

司法とマスコミに翻弄されている「A少年」とその家族のあなた方の苦しみは思うに余りあります。私も早速「真相」を分けて貰い友人たちに届けています。

真実を見つける旅路は茨の日々でしょうが「究明する会」の方々と共に歩いて下さい。

聖書にも「なんじら人を審(さば)くな…己(おの)が審く審判(さばき)にて己がはかる量(はかり)にて己も量(はか)らるべし」(マタイ傳第七草)とあります。私はクリスチャンではありませんが、真実の言葉だと思います。

……◇……

この手紙は、「究明する会」の手を介し、弁護士を通じ、他の多くの励ましと慰めの言葉と共に届けられていると信じている。それは神戸家裁の井垣康弘裁判官が、容疑者A君(十五歳)の処分を決定、医療少年院送りを告げた日(九七年十月十七日)の弁護団(神戸弁護士会による/須磨・友が丘事件対策協議会/羽柴修代表ら)が公表した両親の謝罪文に現れている。この意志を@で表現する。

同時に犠牲者・H・J君(当時十一歳)の父親Mさん(四十一歳)らの怒りをAに摘記。弁護団の活動経過報告の中での「代用監獄」(警察留置場)やマスコミ報道の問題点をBと左に列記し考察する。

@「この度の事件で多くの方々を恐怖と不安に陥れたことについておわび申上げます。特に被害者、ご家族に対してどのようにおわびしてよいのか言葉が見つかりません。

日常生活の中では、子どもの変化に気付いた時はそのつど対応してきたつもりです。しかし、これほど根が深いとは思ってもいませんでした。なぜ少しでも気付かなかったのか、それが悔やまれてなりません。

親として子供への接し方が間違っていたのではないか。2人とも自らを責める毎日です。最初の2か月ほどは、私たち夫婦はいつ頭がおかしくなるのかと心配でした。かろうじて持ちこたえられたのは、身内の励ましや親切な方々の思いやりでした。

私たちに出来ることは子供が治療を受けている間、いろいろな先生方の力をお借りして勉強しながら子供を受け入れる態勢を作り、息子を立ち直らせることだと考えています。それが私たちに出来る償いだと思えます。どんな困難があっても何年かかっても、やり通したいと思っております。

最後に亡くなられたお子さんのごめい福を心よりお祈り申し上げます。そしてけがをされた3人のお子さんが一日も早く良くなられ、ショックから立ち直られますよう、お祈り申し上げます」

AH・J君の父Mさん「私たちのやりきれない心情を想像して下さい」「十四歳だったというだけで犯した罪に見合う罰を受けないのは納得できない」医療少年院送致の決定について「少年法に照らすと妥当な決定」と理解を示す一方「十四歳の少年という理由だけで犯した罪に見合う罰を受けることもなく、医療少年院にしばらく入院した後また社会に戻ってくるのです」など。

通り魔事件で亡くなった山下彩花さん宅は同日玄関に張り紙。「マスコミの皆様へ=いろいろなことが明らかになるにつれ、怒りと悲しみがさらに深くなりました。これ以上のコメントを差し控えさせて頂きます。どうかご理解下さい」

Bのなかの「マスコミの問題点」はもう改めて述べるまでもなかろう。週刊誌、テレビは「パパラッチ」なみ。新聞も「黒いポリ袋の男」「三十代の不審者」等々。全国民に与えた犯人像が固定しつつあった折の意外な進展。正に「まさか」への逆転だった。

それも、これほどジャーナリズムや知識人が素直に納得してしまうのかという疑問を持った人が少ないとは信じられなかった。それはA少年の任意同行、逮捕からひどくなって行った。すべて捜査当局発表の鵜呑みとなり、一線記者が聞き込み取材しデスクも認め、時には一線捜査陣とも同じ行動をしながらのニュースを自ら消してしまったのである。自らの行動の再確認、証拠へのこだわりも捨ててしまった。

そんな折に、「究明する会」の「真実への闘い」と出会ったのだ。やがて彼等の中に旧革マル派の闘士もいると判ったが、セクト主義を排し、真実へのひたむきのために、私は国民融合会議の序でに現地を見た。

「犯行現場」を訪れて

須磨の現地に行く途中、鵯越(ひよどりごえ)の逆落としで有名な源平合戦の「一の谷」史跡の立札を見た。今は面影もなく、目的の地は小高い台地が連なるニュータウンである。高台の一つに立つ「労金・北須磨団地」標示板が語るようにバブル以前の中産階級の街で、道路もゆとりがあり商店街もコンビニも自動販売機も見かけなかった。建材、家財、生活用品を一手に扱う店が一軒。ここでA少年が犯行に使った「金ノコ」と「南京錠」を万引きしたとされている。


そういう街にふさわしく日常食品などは生協に頼っている家が多いそうだ。警察の駐在所もなかったが今度の事件以後、バス型の巡回派出所が回るようになって、私が行った折りも一台が止まっていた。高台の一角には、神戸大震災から逃れてきた仮設住宅もずらりと並んでいた。平穏に見える街の底にはくすんでいるものもない筈はない。

私の目的は、「究明する会」が、さまざまに提起している疑問点をじかに確かめることであった。最初に登ったのはJ君の殺害現場で、遺体の隠し場所とされているタンク山。マスコミにも取り上げられた通り、正面登り道は通称「チョコレート坂」と子ども達に親しまれている長い板チョコを斜めに立てたような傾斜の高い直線の幅広い褐色コンクリートの凸凹坂。下の交差道を横切った住宅往還は、チョコレート板とタンク山まで逆上りの直線で遥かに見通せる。

A少年が、J君を連れて上ったというのが五月二十四日午後二時頃、土曜日の昼下がり、一人として見かけた人がいないという話には納得しがたい。さらに、ケーブルアンテナ基地のすぐ傍に小道ができていて、首の切断現場とされている狭いコンクリート面は、細い金網の下から手の届きそうに近く、胴体を隠したという小さな建屋の床下までも五メートルほどしかない。

私は正面の急坂は疲れるのでタンク山を取り巻く横手の疎林の山道を辿った。その日も、数人の子ども達が遊びに来ていた。ここで白昼に殺し二日間も胴体が見つからなかったとは信じ難い。

J君捜査願いが五月二十四日夜九時前、それまでも近所や町内の人達、翌日からは警察犬を連れた警官隊まで動員しながら見通しのきく疎林と、低い雑草の建屋床下の首なし死体に気付かぬ人間も犬もいるだろうか。

次にJ君の頭部が発見された友が丘中学校正門前に行ってみた。最初に首を載せ、血が付いていたという塀は、高さニメートル弱、身長一六六センチの私が両手を上げてやっと指先が届く。私より五、六センチ低いA少年が載せるのは無理だ。

正門は道路から数メートル引っ込んでいて左半分足らずが開閉する鉄扉だが、右も扉と平行して引っ込んだ塀になっている、その扉に近い塀の上に頭部が最初に載せられていたのだが、その同じ塀の右端に郵便受けがある。新聞配達は自転車かバイクで、道路から斜めに扉の方へ近づき郵便受けに入れて、右に急カーブを切って道路に出る地形。

夜が明けた頃の明かりでも異様な「置物」に気付かぬ筈はないのだが、目撃者たちによって置き場所が三か所も変わっている。さらに最初に通った新聞配達人は五時過ぎには無かった、と言っていたが、その後、語らなくなったといい、多くの新聞も報じた不可解な男たちの話も一切消えてしまった訳だ。

この校門の前は歩道つきの大きな道路があり、平行するように少し高く、同じく学校よりの歩道を伴った道路が通っている。早朝から犬を連れての散歩も多く人に見つからぬ行動は難しい。目撃証言は当然だ。次に、凶器の金ノコが発見されたと、テレビでも見せられた捜索現場の向畑ノ池を見た。狭い池で周囲は林になっており一段高い処にやや拓けた見通しのきく場所があり金の棚越しに、そこをカメラ撮影を誘導するようなかたちで、金ノコを引き上げて見せた構図通りであった。出来過ぎだ。

次に、A少年が住んでいた家に行き、隣家(ここが警察官が入っていたと週刊誌に一言、暴かれた空家)の庭越しに見届けた。A少年が頭部を隠し持って出入りしたという二階の部屋と庭との高低や倒れそうで危なげな棚など放置されていた。曲芸師のような技でも持たねば、とても難しそうだった。首を屋根裏に隠したり洗ったりもだ。

最後にA少年が万引きしたという店内を見た。犯行に使ったとされる同種の金ノコをはじめ、大中小三種類が無造作に置かれてあった。一般によく使われる中型で、池で引き上げるところをアップで見せてくれた同型のようであった。これで南京錠を切り、人間の頸部も切断したのだろうか。

本来の大阪全国会議の夜の部に加わり、翌日の講習を受けて帰ったが、疑問は疑問を呼ぶ。

暫くの時を経て「週刊新潮」(十月二十三日号)が「神戸『少年』両親を『冤罪』に引き込んだ『革マル』偽装団体」の見出しで、これもまた派手というか過激というか、意識的な特集を組んだ。それに類する判断もあり、私も友人から忠告とも取れる親切な経験、教示も頂いていた。

「究明する会」は十月二十一日付で抗議し、謝罪を求めた。「当会を『革マル』偽装団体などと烙印しているが、当会は思想や信条の如何にかかわらず神戸事件の真相を究明することのみを唯一の目的…賛同する人によって担われている。政治党派である『革マル派』とは関係がない…」

「新潮社」の回答は丁重な?拒絶であった。だが問題の「週刊新潮」の特集も最後はこう締めくくっている。「もっとも、事件の真相が少年法に守られて、闇の中に葬られていることに原因がある」。

家裁決定----浮かび上がる様ざまな疑問

問題の焦点は、この「週刊新潮」の「結び」の意見にある。「新婦人しんぶん」(九七年十二月十一日)が一面に大きく扱った「代々木病院精神科医・中沢正夫先生にきく」の書き出しは、さらに核心を衝き貴重な警告であった。

「神戸・須磨の事件は『行動障害』『性的サディズム』などもっともらしく報道されましたが、結局何もけりがつかないままでしたね。あの診断の名称のもとは、精神障害の診断と分類のための手引き(DSM。)によるもので、十八歳未満の子どもが往々にして起こす不適応行動、さまざまな条件のうちこれとこれを満たした場合は、こういうカテゴリーにしようと命名しただけのことで、本質は何も明らかになっていません」

さて、捜査に基づく家庭裁判所の決定は前例になく詳細な長文であったが、殆どが非行事実の認定と今後の処置に至る心理的背景である。唯一興味をひいたのは「警察で集めた証拠の中で、筆跡鑑定は最も証拠価値が高い位置にあったところ、科学捜査研究所が上記声明文の筆跡と少年の筆跡とが同一人の筆跡か否か判断することは困難であると判定したため逮捕状も請求できず、任意の調べにおける自白が最後の頼りであった状況において、物的証拠はあるのかとの少年の問いに対し、物的証拠はここにある旨言って、机の上の捜査資料をぱらぱらとめくって、赤い字で書かれた上記声明文のカラーコピー等を見せるなどしてあたかも筆跡鑑定により上記声明文の筆跡が少年の筆跡と一致しているかのように説明し、その結果、少年は物的証拠があるのならやむを得ないと考え、泣きながら自白したというのである」という理由で、この取調官に対する少年の非行事実供述調書を証拠から排除したことを述べている。ところが、筆跡の違う同じ証拠物を検察官の調書では認めるという、重大な矛盾が取り調べの方法論を理由に、少年犯行の決定的要素にしてしまった。さらに不可解なのは五千字からの「決定要旨」の中で「証拠を検討」とした部分はこの「供述調書等の証拠能力」だけである。これは異様としか言いようがない。

刑事事件を裁く前提は刑事訴訟法であり、第一条に「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし…」の目的を示し「証拠調を終わった証拠書類又は証拠物は、遅滞なくこれを裁判所に提出(三一〇条)」「事実の認定は証拠による(三一七条)」と規定されている。

少年といえども犯行事実は物的証拠によらねばならない。A少年の「犯人像」が突如として現れた時はマスコミも世人も耳を疑うほどであった。少年犯罪が注目される世相とはいえ捜査当局は、あれだけあげた物証の価値を証明する義務がある。カメラ陣の前で引き揚げたとされる金ノコなどの血液反応は勿論、頭部を運んだ袋、切断の時に使ったとされる敷物の血痕、それらの始末、出て来ぬ南京錠、何一つ付添人にも説明しない捜査陣と追及しないジャーナリスト。マスコミの視点をうまく異常行動に絞らせてしまった。

神戸新聞社が届いた「犯行声明」の消印を合理的に分析、集配局を確定、各紙も報道した「神戸西」を「須磨北」に変えさせた奇怪な警察の態度なども追及されていない。

六月四日に届いたこの声明が、J君の口にくわえさせていた「さあゲームの始まりです。愚鈍な警察官諸君…」をP・S(追伸)につけた千五百字もの文章が十四歳の少年の文体とは思えぬ論理性論争も、一歩も発展させず終止符。

A少年の作文とされた、「懲役13年」という九百字ほどの全文が九月二十六日、突然マスコミに発表された。勿論、少年自筆コピーではなくパソコン清書のものである。これが、ニーチエの「ツァラトゥストラはかく語りき」とか、ダンテを引用した知的律動感があると言われた作文、その末尾が「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと俺は真っ直ぐな道を見失い暗い森に迷い込んでいた」。

これがダンテ地獄篇の引用と言われる文体。三十五歳の時に書いた「地獄篇・第一歌」の序章である。まさに文字通り、ニヒリズムの深淵をのぞき込むような高度な作風を示す役割を果たす。

この「暗い森」をタイトルに取ったのが、朝日紙が十月十九日から連載した「暗い森」シリーズである。その中で、同じく警察が発表した少年の犯行メモに触れている。メモは三月十六日の日付で始まる。山下彩花さん(当時十歳)を殴りつけた日だ。もう一人の女の子が、ナイフで刺された同じ日でもある。その夜に記したとされている「メモ」には「ひどく疲れていたようなので、そのまま夜まで寝ました」と書いている。取り調べは警官が尋問し、答えを促しながら警官自身が書き留める。つい警官の取調癖が出て自分が感じたままに「疲れていたようなので」と、筆記しながらつい客観的な表現を使うことがある。油断である。これらの状況から「犯行メモ」は、供述を取られる段階でマスコミ用に作られていったと、勘の良い人なら判断する筈だ。

また、余り気づかれていない重大な疑問がある。A少年によるとされる「懲役13年」のタイトルそのものだ。

もともと、少年院法には第二条のDに「医療少年院は心身に著しい故障のある十四歳以上二十六歳未満の者を収容する」と、はっきり規定されている。と言ってそんな長い拘束には余程の危険性がなければならない。少年法は矯正が目的。最長の二十六歳を適用すればA少年の満期は「懲役十三年」の計算になる。異常な混乱の中での彼の着眼なら天才だ。

(「小倉タイムス」より転載させていただきました)


「正常と異常の間」あるのは誰か

酒井 博(元大須事件被告)

『文藝春秋三月特別号』に「少年A犯罪の全貌」と題したA少年の「検事調書」の一部が、掲載された。有名人の下半身の暴露が本業の写真週刊誌なら別に驚かないが、天下の『文藝春秋』が、読者の歓心を得るため、ここまでなり下がったかと、呆れてものもいえなかった。

まず、「少年A犯罪の全貌」というタイトルが、誇大広告ではないか。

ここに掲載されたのは、真偽は別として、調書のうち七通であり全部ではない。従って全貌というのは明らかに虚偽であり、読者に予断を与える代物である。

編集部からの一文に「小誌の意図は、少年Aなる一個人を糾弾することではなく、何よりも犯罪の全貌を明らかにすることだからだ」と書いているのは読者への背信行為ではないか。

さらに、この記事の責任者である平尾隆弘編集長と公私にわたる長いつき合いがある評論家の立花隆氏に「絶対の秘密厳守を条件に」それを読ませ、判断を仰いでいる。

立花氏は、二時間くらいかけて、慎重にゆっくり全部読んで、「文藝春秋はこれはどんなことがあっても掲載すべきである」と平然と答えている。

僕が許せないと思うのは、この検面調書が少年の「真実の告白」というア・プリオリで書いている立花氏の無責任極まる偏見と独断である。

かっては、徹底した調査と取材で「田中角栄研究---その金脈と人脈」を追跡したあのジャーナリズム精神はどこへいったのか。検察官の拙い推理小説を彼の超人的な想像力で「正常と異常の間」という奇妙な概念で脚色した腕前には感服した。

立花氏は、このオドロオドロした怪奇な文章に圧倒され、彼自身が幻想の森に迷い込み、「正常と異常の間」にはまり込んでしまったのではないか。

若し彼が作家ならば、調書の作者である検事と十四歳の少年の対話との間に全くリアリティがないことに気付くであろう。つまり、文章の虚偽を見抜く力こそ文学者の第一の資格なのだ。不幸にしてルポ作家としての立花氏の力量では、検事のトリックを見抜く力はなかったのであろう。

彼の文学的才能は、現場から遠く離れた書斎での二時間の読書では働かなかったようだ。

立花氏は、一回でも神戸市須磨区の犯行現場を見分したのであろうか。あの挑戦状の筆跡鑑定を精査したのであろうか。一度でも当局がリークした情報を検証したことはなかったのか。

わずか二時間の読書だけで、『文藝春秋』の立場を擁護するためにこれだけ底の浅い文章を書く立花氏の批評家精神の腐食は目を覆うばかりである。

さて、立花氏の形而上学的推理と全く対照的な意見が、中日新聞の二月二十三日付の夕刊「紙つぶて」に載った元最高検検事の永野義一氏のエッセイである。

永野氏は、A少年を無実又は無罪と断定しているわけではない。永野氏は、『文藝春秋』の記事が犯罪捜査や刑事裁判に素人の一般市民に強い影響を与えることを懸念したのだと思う。

犯罪捜査のトップであった元最高検検事がこれだけ心配しているのだから、「神戸・連続児童殺傷事件」なるものがいかに不可解な事件であるかがわかる。

憲法と少年法の精神に立って考えるならば、黙って見過ごすことのできないというのが健全な市民感覚ではないだろうか。疑わしいことがあまりにも多すぎるのだ。

多くのマスコミが、あの「松本サリン事件報道」での痛苦の反省も忘れ、人権無視の報道を続けていることも気になる。戦争を知らぬ読者は、大本営発表で軍部に騙された親の世代の苦い体験をしっかり学んでおくべきだ。

ある友人が「君の見込みがもし間違っていたら、どうするのかね」と忠告してくれた。

僕は英国人の格言「百人の罪人を逃がすとも、一人の無実の人を作ることなかれ」という言葉を引いて「もし僕が間違っていたら、法治国家日本のために喜ばしい。しかし、僕が正しかったら、日本には法と正義はなかったということになりはしないか」と答えた。

僕が関係した松川事件はじめ冤罪事件の多くは、初動捜査の段階で被疑者の自供を過大視したために、事件の真相を見失い「えん罪」を生みだしている。

『文藝春秋』と立花隆氏の合作による「少年Aの犯罪」なる読み物を一読すれば、反ってこの事件の演出者が誰であるかが浮かび上がってくるではないか。

その者こそ真犯人に最も近い距離にいるはずである。完全犯罪を企み、その目的を達した上で、なおこのようなキャンペーンを続けるのは、彼らが自信を失い始めた証拠であろう。

一つは、この事件と報道のあり方に疑問を持ち、実証的な調査と研究で一つ一つ「真相」に迫っている良心的な市民や労働者の活動に恐怖を感じているからにちがいない。

もう一つは、永野義一氏のような検察内部に明るい人物が、事件の捜査と取調べに疑問を持ち始めたことである。この動きは『文藝春秋』の思惑がはずれ、地元捜査機関の暴走への公然たる批判に発展しかねないのだ。

検面調書など内部情報の流出は、権力内部の対立の存在を物語っているようだ。

『老子』に「天網恢々疎にして漏らさず」という教えがある。天の法網は広大で目があらいが、悪人は漏らさずこれを捕縛する。天道は厳正で悪事には早晩必ず悪報があるという意味だ。

「すべての人々を暫くの間愚弄するとか、少数の人々を常にいつまでも愚弄することはできる。しかしすべての人々をいつまでも愚弄することはできない」、リンカーンの演説の一節だ。

一人の少年に罪をかぶせて社会から葬ろうという権力に市民と労働者が屈服するならば、数年後に少年たちが戦場にかり立てられることを阻止することはできないだろう。

それは、けっして杞憂ではない。「少年法」の改悪の次にくるものは「組織犯罪法」であり、「有事立法」であり、「憲法の改悪と徴兵制」でないと誰が保証できるであろうか。

三月一日、「神戸事件と報道を考える会」の石川での集会で、参加者の一人の方が、これからの運動は「狭山事件型」で進めるのか、「松川事件型」で取り組むのか伺いたいという発言があった。僕は、冤罪こそ権力犯罪であり、事件の真相を究明する運動に権力の政治的な挑発が加えられることを恐れないこと、真実を守る闘いこそ権力犯罪を防止させる力だと強調した。

「敏感さ、すなわち権利侵害の苦痛を感じさせる能力と、実行力、すなわち攻撃を斥ける勇気と決意が、健全な権利感覚の存在を示す二つの標識だと思われる」、法哲学者イェーリングの『権利のための闘争』の一節を車中で反芻しながら、僕は早春の北陸路を後にした。


『文藝春秋』九八年三月号を読んで

浅野健一(同志壮大学教授・新聞学専攻)

神戸の連続児童殺傷事件で、『文藝春秋』九八年三月特別号は保護処分を受けた少年Aの検察官面前調書と見られる「供述調書」を掲載した。また『新潮+45』は堺の少年事件で被疑者の実名、写真を掲載した。『フォーカス』は三月一一日号で少年の「犯行ノート」のコピーと見られるものなどを掲載した。人権無視の雑誌がやりたい放題である。

『文藝春秋」九八年三月号のタイトルは「少年A犯罪の全貌」(九四から一六〇頁まで)である。冒頭に「編集部から」とあり、「驚くべき文書」を公開するに至った経緯が一頁で述べられている。続いて「評論家」の肩書きで、立花隆氏の「正常と異常の間 これは、多くの人に読まれるべき貴重な文書である」というタイトルの一三夏にわたる文章が載っている。その後に、四七頁にわたって七通の「供述調書」が掲載されている。一五六頁から「参考 少年の処分決定要旨」が五頁にわたって載っている。

私はこの記事を入手していたが、落ち着いて読める時間に読もうと思って敢えてすぐには読まなかった。二月二〇日に「編集部から」と「供述調書」とされる部分を読んだ。二三日に立花氏の文章を読んだ。

『文藝春秋』のこの記事の掲載についての姿勢は、おそらく平尾隆弘編集長が書いたと思われる「編集部から」という文章の短さと、編集長と「公私にわたる長いつきあい」(どんな交際かは我々の知る権利の対象だ)で信頼関係を抱いているという立花氏の文章の異常な長さを見れば分かると思う。『文薬春秋』はまず、テレビにもしばしば登場して日本を代表するとされる「ジャーナリスト」の立花氏に、露払い(先脳)【ママ】をさせて「供述調書」を読ませようとしたのである。「供述調書」自体の曖昧さ、入手経路の問題、リークしたと思われる当局者の意図などを隠蔽するために、立花氏を登場させたのだ。

この特集で一番印象に残ったのは、立花氏の文章のくだらなさである。表現の自由、プライバシーの権利、刑事手続きなどと専門用語を交えながら、あちこちで詭弁を弄して『文藝春秋』を擁護しているのだ。この国のジャーナリスト、評論家のレベルの低さの全貌の一部がこれで明らかになった。

ますます深まる疑問

「供述調書」に関しては、犯行の手口が細かく述べられているが、最初から最後まで、本当だろうかと思って読んだ。私には何度も出てくる「今お示しの資料…」という表現が理解できない。一五歳の少年が、「今お示しの…」などという言葉を使うだろうか。

当たり前のことだが、検察官面前調書は一般的に、「少年自身の言葉で表現された」(「編集部から」)ものでは全くない。大人の場合でも、検察官は調書を作文する【*】【『文藝春秋』1998年4月号に掲載された、この調書を読んだ文化人らの感想の中で、ただひとり、解剖学者の養老孟司氏が、このことを明確に念を圧すように述べていました。ましてや少年のケースは、検察官による誘導や強要が容易である。

私は神戸事件の真相は未解明だと思っている。神戸新聞の編集幹部も同じ意見だ。少年が犯行に関与しているとしても、単独犯行と断定できるのかとも疑っている。そうした視点で読むと、被害者の小学校六年生との交友関係、頭部の切断方法、凶器の種類、頭部を一時置いた穴、流れた血液の処理、犯行声明文を書いた時間などでこれまで報道されなかったことや、報道された事実と食い違う点が多い。糸ノコから金ノコに急に変わる「供述」。犯行声明文を少年に書かせたということも初めて出てきた情報だ。頭部を黒いビニール袋から補助カバンに移し入れて歩いているときに、機動隊員三人に会って会話をしたとか、女の人を見たとかいうことが書かれている。機動隊員からそういう証言は得ているのだろうか。

自宅台所から黒色のビニール袋を取り出して、頭部を切る時などに使ったと「供述」しているが、これまでの報道ではビニールシートだった。神戸ではゴミ袋に黒いビニール袋は使っていない。

少年が頭部を学校の校門に置いた時間について、「五月二七日午前五時頃に、T中学校の正門に来た人が、B君の首はなかったと話しているようだが」という検察官の問に、「単なる思い違いです」とまず答えて、親が午前五時頃には台所にいるので、そのような時間帯には首をもって家を出ることができないなどと答えている。首を置いたのは遅くとも午前三時頃までと言うのだが、なぜその時間帯なのかという積極的な説明がない。

さらに山口正紀氏が『週刊金曜日』二月二七日号で述べているように、動機がさっぱり分からない。「調書」の動機部分を外して文春に提供した理由は何だろうか。『週刊文春』は1月1・8日号で、全く不当にも「百万人に一人」のサイコパスとして片付けようとしている。井垣裁判長は決定要旨で、検察が主張していた祖母の死との関連を否定している。

この事件の捜査と報道については、『メディア・リンチ』(潮出版)で述べているが、そこで取り上げた数々の謎が解けるどころか、さらに疑問が深まった。大量の血液が流れたのに、なぜ血痕などが一つも出てこないのか。九七年一〇月一七日の家裁処分決定で、井垣裁判官は、兵庫県警の取調官が第二犯行声明文の筆跡と少年の筆跡が一致したという嘘をついて、自白を強要したと認定、取調官のつくった供述調書をすべて証拠から排除した。少年は「警察官にだまされていた、悔しい」と弁護士に泣いて訴えていたのに、弁護団は抗告せず処分が確定してしまった。第二犯行声明文の筆跡がなぜ一致しないのかという謎は深まるばかりだ。

このほか「犯行ノート」の内容は、朝日新聞などに報道された内容と微妙に食い違っている。

少年が加害者と断定して読むと、おぞましく気分の悪くなるような内容だが、本当にこんなことができるのだろうかという観点から読むと、この「供述調書」を書いた検察官は少年に対して公正な捜査を行ったのだろうかという疑問がわいてくる。少年は検察官面前調書を取られる前に、兵庫県警の取調官から違法な方法で供述調書をとられている。少年は検察官の取り調べ期間も同じ警察の留置場(違法な代用監獄)で勾留されている。

我々はこの調書をとった「本職」が誰かを知りたい。少なくとも専門家には知らせるべきであろう。『文藝春秋』はなぜ神戸地方検察庁の「検察官検事」と「検察事務官」を伏せ字にするのだろうか。この人たちは少年法で守られるべき年齢ではないはずだ。

この「供述調書」のリークは、事件についての多くの謎をないものにするために、事件は少年の単独犯行であることは間違いないという世論をさらに補強するために行われたと私は考える。

社会防衛の見地しかない立花氏

ここで立花氏の長文に戻ろう。立花氏は『文藝春秋』の記事に違法性はないと強調する。別に違法性があっても人民の利益になる場合は報道するのが当然だ。しかし、立花氏が固有名詞を伏せることで、少年法には触れないとか、「少年のアイデンティティを秘匿するという一点を厳密に守れば、十分だろう」(一〇八頁)と述べているのは無責任である。少年は九七年七月初旬に発行された『フォーカス』で顔写真を掲載され、他の週刊誌に自宅の写真も載っている。インターネットなど電子メディアで家族関係、職業なども伝えられた。少年の匿名性は既になくなっている。しかも当の立花氏は『フォーカス』の顔写真掲載を支持している。少年の顔は情報であるという理屈でだ。立花氏は少年の逮捕前の段階では、第二犯行声明文について、「あれだけの文章を書ける人間は大学生にもそういない」とメディアで発言していた。

少年のアイデンティティが世間に明らかにされていることを熟知しながら、この記事では伏せ字になっているから何の問題もないというのは、まさにいんちきである。

この記事の前に『フォーカス』などの報道がなかったとしても、この記事だけででも、家族構成や学校のことなどが詳しく書かれており、少年法の趣旨に反している。立花氏は「家裁も決定要旨を公表した」ことなどを根拠として、審判が非公開だからといって「何一つ外部に出さないということではない」と述べている。しかし、家庭裁判所の許可なく「保護事件の記録又は証拠物を閲覧又は謄写することはできない」(少年審判規則第七条)に違反している。少年法など法令に反してでも報道しなければならない時はあるので、少年法違反自体が問題ではないことは言うまでもない。立花氏の論理が矛盾していることが問題なのだ。

情報公開、国民の知る権利を論じたうえで、犯罪人の犯罪行為について書くことはプライバシー侵害にはならない、と述べている。「犯罪人の行為について知ることは、社会防衛上の見地からも、国政の政策立案上の見地からも、非常に公益性が高い」と主張する。この人には、被疑者・被告人と犯罪人の違いや、刑事手続きは「犯罪者を迅速適確に処罰することを目的にする」(九八頁)だけでなく、国際人権宣言や日本国憲法は、全ての被疑者・被告人の無罪を推定される権利や公正な裁判を受ける権利を保証しているという観点が全くない。犯罪の中には我々が知る必要もないこともたくさんあるということも分かっていない。

この発表によって少年が何か不利益をこうむることは「何一つないと考えてよいだろう」とか、一般の人の少年に対する心証はすでに最悪なのだから、さらに悪化するということもないだろうとも書いている。最悪なのだから何をしてもいいというのは、正常な感覚ではない。

立花氏は「供述調書」の提供者は、事件について「世に伝える」のが目的の確信犯であり、その「意気やよしという以外ない」と絶賛している。その根拠は示されていない。日本の当局者が彼の言うような真っ白い気持でこのような調書を外部に提供するだろうか。何か裏がないかと疑うのがジャーナリストだろう。公安警察は二月二三日夜に御用記者たちに、政治団体が「供述調書」を『文書』に送ったかのようなデマをリークした。捜査当局の一部が意図的に「調書」を各メディアに流したのである。

私も公務員が内部情報をリークすることが違法だからだめとは言わない。問題はパブリックインタレストがあるかどうかだ。立花氏は、ジャーナリストが迷ったときの二つのポイントの一つとして、「内容において真実か」を挙げている。立花氏は超多忙な中で「二時間くらいをかけて」読んで真実と判定したというのだが、それでは超能力者である。

立花氏は巧妙に、大新聞や記者クラブを批判し、『文藝春秋』の記事を持ち上げるのだが、文藝春秋こそ時の権力の歓迎するイデオロギーを振りまき、大マスコミの幹部から情報提供を受けていることも多いのではないか。朝日新聞に負けず劣らず「日本のマスコミの陰湿な伝統」の中に存在している。

二月二日、一枚のはがきが大学の研究室に届いた。差出人は「福岡市博多区鈴木敏夫」となっている。栃木で中学生が教師を刺殺した事件を例に挙げて、マスメディアが中学生の実名を伏せるのはけしからん、この国では被害者だけが損をすると書いている。「新潮社と文藝春秋はまたやってくれるだろか? 期待している」「今回の教師殺しの中学生の実名、顔写真、および両親の謝罪会見の公表を希望する」と主張している。社会的処罰欲にこりかたまったこういう人たちを育成しているのが立花氏が盛んに持ち上げる文藝春秋なのだ。

立花氏には、『週刊文春』も含めて、文書ジャーナリズムが戦前、戦後と市民の知る権利にどうこたえてきたかを検証してもらいたい。文藝春秋の創設者である菊池寛(私の高校の先輩である)の戦争責任もぜひ解明してもらいたい。


「神戸小学生殺人事件」通説シナリオヘの疑問

戸田 清(長崎大学)
私は元神戸市民ということもあって、「神戸小学生殺人〔連続殺傷〕事件」とはいったい何であるかということが、ずっと気にかかっていた。『神戸小学生惨殺事件の真相』(神戸事件の真相を究明する会、一九九七年八月)を非常勤講師をしていた津田塾大学の学生自治会が送ってくれたのは、十月のことである。その直後に長崎大学生協書籍部で『続神戸小学生惨殺事件の真相』(一九九七年十月)を入手した。これらはA少年が犯人であるという通説への疑問点を体系的、実証的に明らかにした力作である。そして、『小倉タイムス』の瀬川負太郎社長の呼びかけで一九九八年二月二十二日に行われた現地調査(福岡などの市民有志による)に参加した。案内してくれたのは、「神戸事件と報道を考える会」などの人たちである。

一六三センチのA少年が中学校正門の右側の塀(高さ一九八センチ)の上にJ君の切断した頭部を置いだというのは果たして本当だろうか。人間の頭部はけっこう重いので、小学校六年生のJ君の頭部は七キロくらいになるであろう。私(身長一六九センチ)も七キロよりずっと軽い鞄を置いてみたが、どうも流布されているシナリオは不自然に思えた。試みに肩車をしてもらうと、容易に置けるように感じた。脚立を使うよりも肩車のほうが簡便である。早朝だったとはいえ、学校の前の道路や、その前の一〇メートルくらいの高さの台地を走っている道路や住宅から見ている人がいるとすれば、丸見えである。ふつうなら見張りをおいてやるだろう。さらに合図など指揮をとる人がいたほうがよいかもしれない。A少年がひとりで置いたというよりも、三ないし四人の大人が置いたとみるほうが自然である。黒いブルーバードの目撃証言を蒸し返して再検討したほうがよいのではないか。「僕は、まず正門の右側の塀が目に入ったので、その塀の上にB君の首を置くことにしました。僕は、B君の頭部の首付近を両手で持って、背伸びをしながら、その塀の上にB君の首を置きました」(『文藝春秋』一九九八年三月号一三七頁)というA少年の検事調書の言葉には、自分の身長より三五センチも高い塀の上に重い首を置く苦労が感じられない。

タンク山のアンテナ基地は、九七年十一月に理由不明の改修工事が行われた。側溝の幅は場所によって違うが十五〜十八センチである。背骨(脊椎)のうち首の部分は頸椎といい、すべてのほ乳類は七個の頸椎から成っている。頸椎と頸椎のあいだは、軟骨(椎間板)である。「素人」が首を切断しようとするときには、第五頸椎と第六頸椎のあいだの軟骨のところで切るのが容易である。ところがJ君の場合は第二頸椎の椎体と椎弓(いずれも骨)の部分が鋭利に切ってあったと神戸大学医学部法医学教室の龍野嘉紹教授は証言している(『続神戸小学生惨殺事件の真相』神戸事件の真相を究明する会、一九九七年十月、十頁)。第二頸椎は正面から見ると顎のうしろに隠れており、切断するのが難しい。そのように切断するためには、遺体を仰向けにして、首を強くのけぞらせ、前から切ったと推測されるという。このように狭い側溝では、首を入れてそのような切断を行うことは不可能であろう。また切断面の鋭利さ、死斑や腐敗の状況などから見て、糸のこや金のこで切ったというよりも、むしろ凍結させて電動丸のこで切ったのではないか、とも指摘されている。「B君の首が溝の上付近に来るように置」いてコンクリートの地面の上で切断したという供述(『文藝春秋』一二三夏)は不自然であると言わざるをえない。私は現在は一応、社会学専攻であるが、かつて家畜解剖学教室にいたことがあるので、この「解剖学的な疑問点」はずっと気になっていたのである。

そのあと私たちは、入角(いれずみ)の池のほとりに降りてみた。急坂が続き、所々に上り下りを容易にするためのロープが張ってある。一九九七年五月の事件当時にロープが張ってあったかどうかは不明である。警察のリーク情報のなかに「入角の池」が出てきたのはようやく十月のことであり、検証しようがないからである。相当に急な坂を中学生が重い首を持って上り下りする(『文藝春秋』一三〇頁)ことは、不可能とはいえないにしても相当大変であろう。また地元の年輩者でも「入角の池」という地名やその読み方を知らないという。

学者・文化人やマスコミの対応もおかしい。神戸家庭裁判所が十月十七日に下した医療少年院送致との決定要旨第四項目には、警察官が少年Aに嘘をついてだましたことは違法であるとして警察調書を証拠から排除し、にもかかわらず検事調書は採用したことが記されている。しかし十月十八日の各紙社説は「警察官の犯罪」(浅野健一氏の表現)に何らコメントしていない。野口善國弁護士の「少年が警察官にだまされた、許せない、と訴えたので、大人なら当然無罪を主張して争うが、少年だから家裁の決定に同意した」という弁解も理解に苦しむ。また、社会学者宮台真司氏はJ君の頭部が発見された一九九七年五月二十七日から沈黙を守り、十四歳の少年逮捕の報道がなさ れた六月二十八日から少年の犯行であるとの前提で(と読みとれる)コメントを出し始めたという(『透明な存在の不透明な悪意』宮台、春秋社、一九九七年)。権力の理論的研究で博士号を取得した社会学者が「犯人と容疑者の混同」という初歩的な誤りを犯しているのではないか。

なお、「神戸事件の真相を究明する会」のメンバーのなかに革マル派の関係者が含まれていることをもってその問題提起の価値を否定する人がいるようだが、そのような議論には賛成できない。元共同通信記者の浅野健一氏(同志壮大学)もホームページのなかで、「『神戸事件の真相を究明する会』などが提起してきた疑問点が解明されていない」と述べている(「少年『処分』をどう見るか」一九九七年十月二十三日)。少年事件の非公開原則は、国家が矛盾したリーク情報を垂れ流すことを決して正当化しない。私は、疑問点に対する政府の説明責任(アカウンタビリティ)を求める立場から、「神戸事件と報道を考える会」の提言に賛同している。賛同者のなかには、甲斐道太郎、金時鐘、壽岳章子、槌田劭、早川和男、樋口健二の各氏など多数の良心的な知識人が入っている。少年Aが冤罪である可能性は、決して小さくない。

(本稿は『社会運動』四月号にも掲載される予定です)


〈A少年〉は果して酒鬼薔薇聖斗か
   『文書』3月号の「供述調書」を読む

岡田 啓(文芸評論家)

この度、思いがけなく彼が供述したという「検事調書」が読めた。

私は、Aは犯行の近くにはいたが〈犯人でない〉か、犯行行為者であっても、その背後に〈まだ解明されていない何か〉がありはしないか、という疑念が拭えないできた。

調書は私のそこでの欝屈した思いを解消してくれなかった。

検察の調書は本来は読み込めないものだろう。相手に確認を求めたとはいえ、これは検事の聞き取り書きだ。Aの文章ではない。相当用心して読んでも間違う場合があるに違いない。

後日、Aが「実は、この事件は、私にとっては、すべてが想像空間での出来事で、私はそれを供述したまでなのです。」と言った時、この「調書」はどこまでの証拠価値を持つだろうか。

これは少年法の問題でもある。法の趣旨を私は是とするが、この法では少年の冤罪を救抜できない。捜査が徹底しない。その結果、真相の解明を不可能なものにしてしまう。それは『文春』三月号の「調書」自体が語っている、と思う。

ところで、Aに「懲役13年」なる「作文」がある。これは十四歳の少年の文章ではない。一定の読書量や技量があれば書けるというものでもないと思える。少なくともAの他の文章と比べて落差がある。「謎」がある、と思えるが、仮にこれをAの文章とすれば、こういう文章が書けるAならば、事件の細部を想像の上で構築することはほとんどむずかしいことではない。それはこの「調書」におけるAの実にいいかげんな辻つま合わせの「供述」がものがたっている。Aは自分が十四歳であることを利用して(これは少年法を逆手にとってということでもあるが)何かを隠蔽しようとしているのではないか。大事なことは、事件に決定的に結び付く〈証拠〉があるかどうかだ。

私の判断だが、「調書」からは、それは見えない。むしろ曖昧さや不自然さが随所に指摘できる。自供は、証拠としては、本来意味をなさぬものだ。意図された嘘の自白であればなおさらだ。系ノコで南京錠を一分ほどで切った、ということなど嘘だろう。

この事件で、Aの自白、供述以外のいわゆる「物的証拠」となるものについてはどうだろう。

公開されている文書の<文字>は、科学捜査研究所が<筆跡は特定できない>と「判定」し、それに関連する「供述調書全部」が、「証拠から排除」されている。

では、「南京錠」(三個)、「糸ノコギリ」(金ノコ)、「補助カバン」、「ナイフ」、絞殺した時の「くつ紐」と「手袋」、首を拭った「タオル」、血液を溜めた「ビニール袋」、燃やされたと供述している「ノート」や「スケッチブック」、燃やされたものの「灰塵」、首を隠した「天井」、洗った浴室、「自転車」、それに「ショックハンマー」等に証拠価値はあるか。「補助カバン」からは、被害者の血液に結び付くルミノール反応はあったのか。Aが追認したから確かだとはいかにもお粗末だろう。

これだけの事件で、しかも被告が全面自供していながら、その自供以外に<証拠が何もない>ということは、これは随分<異常>なことではないか。

なぜ、用心深いAが「ノートのメモ」を残したか。少年だから…、としてしまうのは、このAの場合は<何かが違う>のではないか。

「排除」されたにせよAのものとされている「文章」にも、疑問点、不明点が一杯ある。神戸新聞社への文章にある「ぼくと同じ透明な存在である友人」は単に自己の二重表現ではなく、今少し違う背景があるかしれない。「僕のマーク」なら以前に使われたか。ともあれ、これらは逐一、Aに明らかにしてもらうことが必要だ。これは、Aの精神・人格障害といったことをどう考えるかということにもつながる。『文春』の目次の「少年A犯罪の全貌」ということでは、私はその「全貌」は何一つきちんと明らかになっていないと思える。「少年法」の「本人であることを推知することができる」要素は排除して、事件にかかわるものの資料の全体が開示されることを求めたい。

(2月中旬に「朝日新聞」論壇に投稿し不採用)

岡田啓さんは、日本文芸家協会会員、岐阜・現代批評フォーラム事務局長です。著書には『島尾敏雄--還相の文学』(国文社)『学校=見えない檻・教育の新しい磁場を求めて』(駒草出版)などがあります。
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