イスラム理解の前に確認したいこと

 昨年末、ある反戦市民団体の通信で、アフガン戦争をとりあげ、そこでイスラムについてふれていました。時宜を得た適切なテーマ設定ですが、内容上、いくつか腑におちないものを感じました。

 その団体では、集会にFさんという若いイスラム教国の女性を呼んで、話を聞いたとのことです。通信に意見を載せている年若い皆さんは、その女性の話に納得しているようでしたが、私は、そんなに簡単に納得してほしくないと思いました。

 1) Fさんは、ヴェールについて説明していました。ヴェールは、イスラム圏でも国によって名 称も形態もちがいますが、Fさんは、ブルカもチャドルもヒジャブも区別していません。しかも、タリバンが強制したブルカというのは、他の国のヴ ェールに比べて、全身を覆う点、きわめて特異で、極端であり、非実用的なものなのです。イランのモフセン・マフマルバフ監督の映画『カンダハル』などを見ると、女性が大勢集まっているところは、まるでフジツボのようです。

 2) イスラム圏でのヴェール着用は、昔ながらの伝統である、という説明は、大事な事実を無視した、危険な俗説です。ヴェール着用がやかましく言われるようになったのは、過去20年前 後のことです。オイルショック以降、世界経済が不況色を強める中で第三世界で近代化が挫折したのが、その原因です(*)。それ以前は、むしろ、イスラム教国自体が、近代化を進めることをよしとしていたので、その中でヴェールはしだいに廃れつつあったのですが、近代化が失敗したために、民衆が近代化の利益を独占する支配層に対して反発し、伝統回帰の動きが起こって、その中でヴェールがシンボルの意味をもつようになったのです。決して、単純に昔からの伝統と言えるようなものではないのです。

 3) ヴェールは、女性が家の外では自分の魅力を人に見せるべきではないと考えているから被るの であり、それは家族を大切にすることの表れだと説明されていますが、これは納得がいきません。極端 なたとえかもしれませんが、日本で労働運動が低調なのは和をもって尊しとなせとい う十七条の憲法が今も生きているからだとでもいうようなものではないでしょうか。  それよりも、あらゆる点で女性の社会的活動が制約され、家庭の中にしかいる場所 がないこと、その根本原因としてイスラム家族法があることをきちんと考えるべきで す。Fさんはそんなことを知らないようです。

 4) なぜ、女性はその魅力を人前にさらしてはいけないのでしょうか? では、男性は 見られてもいいのでしょうか? ここには、男性中心の価値観と、特定の男の所有物 になる以外に女性の存在を認めない姿勢がよく表れているのです。
 男女の隔離、すなわちアパルトヘイトのため、男は、つねに、女について、ありの ままには知らず、また知ろうとせず、自分の性欲から生まれる妄想にもとづいて、判 断することを強いられています。このことが男女の関係を損なうのです。
 これはひとごとではありません。
 イスラム圏の人たちは、欧米では女性が性的対象としてさらしものにされており、あのような扱いはよくない、と言います。しかし、過度に女性をさらしものにすることも、女性を人目から遠ざけることも、どちらもあまりに極端ではないでしょうか?
 じつは、イスラム圏で女性を人目から遠ざけることも、欧米や日本などで、女性をさらしものにすることも、本質的には同じなのです(女性が自分で自分を見せたいと思う気持は、このさい除外しますが、それもじつは自然なことであろうと思います)。
 女性を人目から遠ざけるというときの「人目」とは、男の目です。だから、これは男性中心の見方でしかないのです。他方、欧米や日本等々で、女性の裸体が売り物になっているのも、男の楽しみのためです。欧米や日本でも、イスラム圏でも、男性本位の見方しかされていないのです。
 欧米や日本では、女性の魅力というとき、昔からの性差別の伝統を背負って、かつ今の産業社会の中に生きる男たちのステレオタイプ的な性的欲望に合わせて作り上げられた「アトラクティブな価値」を見せつけるだけですから(たとえば、グラマーガールという、一部分だけ肥らせた、女のボンサイがありますね)、好ましくない要素をいろいろ持ってはいますが、それでも、女性の性的魅力がさらけ出されている社会のほうがよいと、私は思います。

 90年代前半、モロッコで現職の検事総長が仲間数人とともに500人もの女性をレイ プし、その場面をビデオに撮影していたことが露見し、死刑になるという事件があり ました。なぜ被害者が500人になるまで露見しなかったかといえば、性が抑圧されて いるために、女性が性的暴力の被害を訴えることすらできない社会だからです。
 人前に女性の魅力をさらけ出して歩ける社会は、性暴力の被害を訴えることを、か なり容易にしてくれました。この事実を私たちは決して忘れないようにしましょう。
 性の抑圧は、女性を卑しめることにつながります。男は、自分がいちばん強く求め ているものを否定しなければならないので、欲求の対象を卑しめ、ゆがめて見なけれ ば、我慢できないからです。

 家族が女性によってのみ担われ、男性については、何も言われないという不平等 も、見過ごすことはできません。


 イスラム教国バングラデシュで、ドメスティックバイオレンスの話をすると、あの 国の男たちは「女房を殴っていけないとしたら、なんのために結婚するのか」と聞き 返してくるという事実もあります。

 イスラムの女性の状況については、雑誌「経済」(新日本出版社)3月号に掲載さ れた千葉大学の平井文子さんの記事「イスラムにおける女性」を是非ご覧いただきた いと思います。モフセン・マフマルバフの「カンダハール」も参考になります。

 イスラムを差別してはなりませんが、ひいきのひき倒しのような考えに陥るべきで はないと思います。
 これは基本的人権に関わることです。したがって、私たちがなんのため に憲法を擁護するのかということに関わってくる本質的な問題です。憲法改悪に反対 する私たちは、自分達、とりわけ女性と子どもの権利を大事にする必要があると思い ます。
 私たちが今の「米国から押しつけられた」憲法を支持してきたのは、私たちが西洋 流の近代化のある重要な側面(すべてではない)をよしとしたからではないでしょうか ? 戦後の米国の対日政策の矛盾、反動性(ブッシュ路線はその極端な例)こそ、彼ら が誇る価値を彼ら自身が裏切っているのだと思います。今、米国で行われている言論抑圧は、言うまでもなく、そのひとつです。

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