「少年A」仮退院の報に


 A君が仮退院となったそうです。
 その日、マスコミに、A君が「酒鬼薔薇聖斗」でない可能性が高いこと、あるいは少なくともそういう指摘がされていることを、取り上げる報道は、皆無でした。
 ブッシュの戦争政策で米国が一時、イラク攻撃支持一色で塗りつぶされた(塗りつぶしたのはマスコミの恣意ですが)のも最近のことでしたが、自衛隊サマワ入りとともに、派兵反対の比率がガタッと下がってしまったと騒がれている日本で、神戸事件報道が、このような水準なのも当然です。

 当サイトをご覧くださった方には申し上げるまでもありませんが、あの人が真犯人ではないとみるべき証拠はやまほどあります。
 ただ、当サイトで、これまで、はっきりとは書かなかったことが、ひとつ、あります。

 トップページで書いたように、A君は真犯人に命を狙われる危険があると、私は思っています。
 A君が、真犯人と接触があったのではないかと思うからです。
 もしそうなら、A君は真相は語れないでしょう。

 そういう目で、ご両親の手記を読んでみます。

 「自白」のあと、審判開始までのあいだ少年鑑別所に収監されたA君に両親が面会し、「帰れブタ野郎」と言われて、まともに口もきけずに帰ったくだりは、有名で、よく引き合いに出されます。【「帰れブタ野郎」などという、単純なフレーズも、引用する雑誌、新聞により、言葉使いをじつにまちまちに変えられているのは、日本のマスコミの水準をよく示す事実として記憶しましょう】
 しかし、私は、このくだりより、その次に、お母さんひとりがA君と二人きりで面会したくだりのほうが、重大だと思います。

 この面会は、少年のほうから、鑑別所の係官に、母親とは会ってもいい、との意思表示がなされて、実現したものです。
 そこで、こういう状況にある親が真っ先に子どもに聞きたいことは、「あんた、あんなことを、ほんとにやったの?」ということでしょう。
 じっさい、A君のお母さんも、『「少年A」この子を生んで』(吐き気のしそうな差別的でべたべたしたタイトルです)の26頁で、

  警察の方や検事さんに、私も調書を取られるたび、
「Aは私に会いたいと言っていませんか?」と様子を尋ねていました。
「いや、ご両親には会いたくないと話しています」
 いつも、そう返事が返ってきました。
<おかしい。そんなはずはない。(中略)きっと私に助けを求めてくるはずだ>
 (中略)
 「母さん、これ絶対僕と違う」とあの子が言えば、恐らく私はその言葉を信じていたと思います」
と書いているのです。
 当然、お母さんは、「あれ、ほんとにあんたがやったの?」と、勇気をふるって聞いたはずです。

 でも、『「少年A」・・・』の、面会のくだり(27〜30頁)には、かんじんのその質問が書いてなく、

 でもその後【引用者注 Aは面談室で母を迎え、どなったことを泣きながら詫び、母親が泣くと、ハンカチで涙を拭いた(27頁)。そのあと、ということ】の出来事---私とあの子とのやり取りの詳細は、あまりのショックのために頭の中がパッと真っ白になってしまって、実は今も鮮明に思い出すことができません。
とあります。

 質問はしなかったのでしょうか?
 記憶がないと言いながら、そのときいろいろ話したなかで息子が人の命の大切さを理解していないことを知ってショックだった、などとこの同じくだりに長々と書いているのは、そらぞらしくありませんか? 世間で繰り返されるパターン通りのお説教の表現を借りた、この行文は、きっと、貝になってしまったお母さんに業を煮やした文藝春秋社の作文です。

 それでも、末尾に

「母さん、知らん方が幸せなこともあるやろう」
とA君が言ったと書かれています。
 よくよく重大なことをA君は言い、それは母親が口外を避けるほかない事柄だったのでしょう。

 「うん、ぼくがやったんだ」とA君が言ったのなら、こんなに隠す必要はありません。
 また、事件の様子について、検察調書くらいは、いやというほど読まされているはずのお母さんにとって、いまさらショックで記憶もできなくなるような事実の描写があるとも思えません。面会の時点では読んでいなくて、ショックだったとしても、その後、審判の過程でいろいろ聞いたり読んだりしたことを踏まえて、この手記を「書いて」いるのですから。

 そこで考えられるのが、A君は真犯人と接触があり、彼らの犯行を知りつつ、黙っていたのではないか、ということです。こういう場合、真犯人から脅迫を受けて、真相を一切語れないということがありえます。それを、お母さんにある程度もらしてはみるが、いくつかの細部はあいまいなままの息子に、お母さんは、とにかく命にかかわることだから黙っていようと決意した、というふうに、私は想像します。

 今回の仮出所を報じる読売の記事、【加害者の元少年仮退院「あのころの自分、幻のよう」】(読売10日)を読んでみました。

 いろんなエピソード(その中には本人から得た情報はひとつもない)を、出所も発表の時期や場も拭い去って、新聞の思う枠組みのなかに並べた、この記事を、事実を記述したものであるかのように読んでしまうわけにはいきません。

 A君が、少年院の人たちに「心を開いた」過程、「罪」についての「反省』などが述べられていますが、こういう記述を読む時には、あの甲山事件の犯人にでっち上げられた女性も、「自白」するときには、悔恨の言葉を口にして、涙を流しながら捜査官のひざにすがりついたのだということを、念頭におくべきです。これは、冤罪が作り上げられる過程の例として、決して特殊ではないはずです。
 人間、生きていくため、社会に認められるためなら、また一人きりで捜査室などという権力機構の暴力がむき出しになる密室に追い込められて、そこから刹那でも逃避するためなら、どんなことでもする、ばかりか、どんなものにでもなるわけです。また、そのとき、それを期待していた相手(権力側)は、その迫真の演技(!)に、進んで騙されるはずです。

 A君が犯行を「自白」した1997年6月28日の神戸新聞の報道には、地元神戸在住の推理作家、小林久三氏の、ほんとにあの子にあんな犯行が可能なのか、闇の勢力に操られている可能性もあり、慎重に捜査すべきだ、という内容のコメントが載っていたものです。私の仮説は小林氏と少しちがいますが、もとはそれに示唆を受けています。

 私や小林氏の見方が正しいとすれば、真犯人はA君をねらう可能性があります。
 A君は社会に注目されているので、真犯人にも、うかつには襲撃できないか、とも思いますが、身元不明なので、何があっても闇から闇に葬り去られる恐れはないかとも思うのです。

 以上を書き上げたところで、文藝春秋社から元東京少年鑑別所法務教官・草薙厚子による『少年A 矯正2500日全記録』という本が近々刊行されるという広告を見ました。少年の件に関する当事者ではなく、法務省サイドのスポークスマンとして、その前歴によってハクをつけるために雇われたのでしょう。こんな人を信用できるでしょうか? なんと1300円という、いまどきにしてはずいぶん安い値段の「全記録」とは、すでに羊頭狗肉です。

 斎藤学(さいとう・さとる)も、時には正論を吐くもので、A君の性的サディズムが少年院で治ったはずがないと、東京新聞のコラムで断言しています。
 まったくその通りです。とくに、女性教官への恋が癒しになったというのは、そらぞらしい、間に合わせの作り話です。
 性的サディズムに陥るほど、つよい性的衝動をもてあます人間が、はじめから成就しないことに決められた恋をして、癒されるはずがありません。
 ドストエフスキーの『罪と罰』の末尾に唐突に登場するナターシャも、その存在が印象的なのは、彼女が、ラスコリニコフのシベリア流刑に同行するからで、もし、あれが婦人警官だったら、お笑いです。

 でも、斎藤学がもし、A君とじかに接触できる立場だったら、同じ嘘を、きっとついたことでしょう。
 しかも、心理学や教育の専門家と称する人たちは、じつにおめでたく、子どもの偽装やへつらいに騙されてくれるものではありませんか?

 いつか、「少年院での自分は幻のよう」と、A君が「自白」することがないと、どうして言えましょう。

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